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ホメオトシス
ラ・マンチャ通信
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 自負/自戒/虚栄/異端/悔恨/...../そして和解?
中島丈夫のホメオトシス
ホメオトシスは勝手な造語です。寂しい話しですが、誰にも褒めてもらえないので(...)、今も昔も自分で自分を褒めることしかできないのです。その心模様が落とし穴になりがちです。”褒め落とし”の自己責任版です。解かってはいるのですが、心が定期的に暴れるのです。いっそ心の端々まで透明で他人に見えることが出来れば楽なのですが。個とはどういうせめぎ合いの末に出来上がった何のためのバリアーなのでしょうか。
いずれにしてもこのサイト全体が、モノローグの置き場であり、荒魂に対する鎮魂歌なのです。



21世紀の日本国家アイデンティティ. Trustの旗は至誠と誇りで立てる

- 怒りを超え、心を癒して日本人の誇りを再生しよう -1

2011年01月01日記述


  あけましておめでとうございます。
今年こそ、良い年でありますように。
色々と祈念しているうちに、またまた固い題名のブログになってしまいました。
今年は、ホメオトシスのスレッドからスタートします。よろしくお願い申し上げます。

 2011年の巻頭で掲げる言葉は Trust です。
グローバルな激動の時代ですから、横文字でのスタートもお許しください。

 とにかく 2010年ぐらい、このTrust が消失し、荒みきった怒りの心で苛まされた年はありませんでした。
国内外での幾多の裏切りや欺瞞が、私たち日本国家の誇りを散々に打ち砕いてしまいました。
 2011年最初のホメオトシスになってしまいますが、2006年のISE Technical Conference で、北城さんに続いて行ったキーノート・スピーチの中で、小生は Trust の未来的な重要性を繰り返し述べました。
まさしくそれが、現在の日本の置かれた窮状や政治の貧困を予言することになってしまいました。

 Trsutは大変重要ですが、また大変困難なテーマでもあります。
Trustは、個々人の不断の努力で守り育てていかないと、すぐに壊れてしまう大変デリケートなものです。
多様な価値観と欲求の心模様のバランスの上で、かろうじて成り立っている、陽炎のようなものです。
これを、何億の民からなる民族間の国際的なせめぎ合いの中で成り立たせるのは至難の業でしょう。
そしてまた、神との関係で連帯するTrust の輪が、宗教間の対立で埋めがたい死の谷を刻んでもいます。
で、Trust が失われた末での戦争やテロという衝突が、地球上で何百回も何千回も繰り返されてきました。
これからも、この構造は変わらないのでしょうか。変えられないのでしょうか。

 もし、それでも我々日本民族が平和を指向するのなら、どのような方法が取れるのでしょうか。
結局は外交プロセスなのでしょうか? そして抑止力としての卓越した軍事力が必須なのでしょうか?
新しくサイバー戦争なども勃発するのでしょうから、それへの準備も必要です。
その上で、我々にとって重要なのは、この戦争抑止の意志とプロセスを、しっかりと統合された国際関係でのガバナンスとして確立することでしょう。
呪文のように平和を唱えるだけの、他力本願の貧しい知性に堕していることなど、もう許されません。
そしてそのガバナンスを実現する上で最も有効な方法が、多様な価値観を融合するTrust の確立です。
日本国の成り立ちとしては、ビジネス主導、そして技術立国が要諦となるわけですが、ここでもTrsut が肝になることは言うまでもありません。

 人と人のTrust のベースとして、コミュニケーションが、そしてそのプロトコルが重要になります。
複雑で、お互いに習熟するのに何十年もかかるプロトコルに夢を託すだけでは今の問題に間に合わない。
丁度 IT の世界でのWS-* の顛末のお話ですね。
もっと、単純で、即効性のあるものでなければならない。

 さてそこで、Trustの日本語訳はなんでしょうか。普通に辞書に出てくるのは、信頼、信任、信用です。

江田島の旧海軍兵学校に五省(ごせい)というのものがあります。
その一項めが、至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか、です。
小生も大学の空手部の道場で、正座して大きな声で誓ったものです。
真心に反する点はなかったか。 そこで要求されるのはストイックさ自己抑制型の心模様ですね。
そしてという心の深層での色合いが、行動の抑止力として五省を支えます。
小生はTrsut の単純で即効性のあるプロトコルとして、至誠が最もふさわしいと考えます。

 でも、この至誠とは、忠犬ハチ公に見られる忠節に覆われた武士道的な世界観だけなのでしょうか? 
はたまたストイックさとは、苦節に耐える、武士道的な道徳観念のことだけなのでしょうか?
答えは否ですね。
至誠は受け身ではできない。そんな方法では、多様な人間の自己欲求を抑え込めるわけがありません。
いつまでも持続出来る確固たるTrsu t はお互いの至誠が融合しなければ不可能すが、その至誠は、自己の誇りに裏打ちされたものでなければ続かないでしょう。
誇りの裏付けの無い至誠は容易に破たんしてしまい、結局は武力での解決に走ることになるのでしょう。
民族間のプロトコルにおいても然りでしょう。朝見外交などは続かない。
至誠を支える自己の誇りが、民族の誇りが、Trust をロバストに育むエネルギーを生み続けるのです

 唐突ですが、誇りの議論になると真っ先に脳裏に浮かぶのが、小生の青春の友、”富士”です。
中型犬の代表である紀州犬の富士(最初の出会いで小生が名付けた)は、猟犬としての誇りが強かった。
彼と共に淡路島の野山を駆け回った日々が本当に懐かしいのですが、彼は実に気儘なお犬さまでした。
この日本列島の、奇跡の自然に育まれた日本犬の心のひだには驚くほど高い誇りが刷り込まれています。
いわんや日本人においてをや、です。

 では、その誇りは、個人の誇りや民族の誇りは、どのようにすれば、、再生できるのでしょうか。
昨今の日本国家の全くの閉塞感のなかでは、一刻の猶予もありません。
そして、将来の民族の要となる子供達の教育においても、どのように育んでいく事が出来るのでしょうか。


蛇足
 全くの余談ですが、富士と洲本の野山を駆け回っていた時に、突然に出くわしたことがありました。
曲田山から三熊山に抜ける山道は、いつもの我々の周遊コースだったのですが、そこで出くわした。
この山道では、富士の鎖は外して自由に走り回れるようにしていました。
で、ある日、その狭い一本道を向こうから富士が脱兎のごとく一匹の子犬を追いかけてくるのが見えました。
その子犬はまっしぐらに小生に向かって走り込み、あろうことか避けもせずに小生の足に激突してしまいました。その瞬間に富士はこの子犬を咥えてしまっていました。
狼狽した小生は、とにかく咥えた子犬を、彼の口から外すのに必死になりました。
彼は頑として獲物を離さない。
次の瞬間、その子犬は自分の毛皮をズルッと剥いで、森の中へすっ飛んでいきました。
小生は狼狽してしまいました。
ところが、手元に残った毛皮を見て、また仰天してしまいました。
それは兔の毛皮だったのです。
洲本といえば淡路島の都会で、野山といえども走り回る動物は犬しかみたことが無かったのですが、
野兎だったのです。
子犬でなくて安堵するとともに、兎の身を案じて、小生は毛皮を持ったまま立ちすくんでいました。
くだんの富士は、もう獲物を追おうともせず、軽蔑しきった鋭い眼つきで、小生を睨んでいました。

 























  Trust トラストの構成
 Trust はナイーブでとても壊れやすいもの.
安直な駆け引きで築き上げることなど出来ない














 誠の旗 Trustの旗
 日本民族が世界の人々に見せる旗.

日本列島の奇跡の自然で育まれた日本人のバカ正直さは、恥ずべことなど少しもない美質である










    
  青春時代の我が友、紀州犬 ”富士” 

日本の猟犬、紀州犬は、とても誇りが高かった