福島原発に見る科学の堕落と技術の堕落.知の発現としての美・善・真
- 技術と科学の区別を意識して論じよう -2
2011年07月10日記述
このブログは、ITの風景:「スパコン”京”の世界一位の危うさ. スパコン開発の進路はスピードからスマートへ
-技術と科学の区別を意識して論じよう -1」 からの続きです。
福島原発に見る科学の堕落と技術の堕落.これからは科学と技術の区別を意識して論じよう
小生は、福島原発の大災害で、科学の堕落と技術の堕落を見ています。
その原因が、日本人が明治維新以来、科学と技術を”科学技術”という括りでまとめてしまい、その価値や役割をごちゃ混ぜにしてしまっている事にあるのではないか、と考えています。
これが、肝心な場面での竹槍精神となり、リスクを曖昧にしてしまう原因ではないかと考えています。
小生はまた、以前のブログで、日本の科学技術立国がうまくいかないのは、科学が技術を押しつぶしているからではないか、と書きました。
今泉 蓮さんがご自分のブログで、次のような寺田寅彦の言葉を引用されています。
寺田寅彦が「科学上における権威の価値と弊害」のはじめのくだりにおいて、 「科学上に
おける権威の効能はほとんど論ずる必要はないほど明白なものである。ことに今日のごと
く各方面の科学は長足の進歩を遂げてその間口の広い事、 奥行の深い事、 既往の比でない。
なかなか風来人が門外から窺い見てその概要を知る事も容易ではない。 」と書いている。
中略
しかし、寺田寅彦が、 「美術家は画法に囚われて自然を見なくなり、宗教家は経典に囚わ
れて生きた人間を忘れ、学者はオーソリチーに囚われる。そして物質界を赤裸々のままで
見る事を忘れる。美術家は時に原始人に立返って自然を見なければならない。宗教家は赤
子の心にかえらねばならない。同時に科学者は時に無学文盲の人間に立返って考えなけれ
ばならない。 」
知の発現としての美・善・真. 知と技術、科学の関わりにブレンド思考が必須
実は小生は少し前から、フランスの哲学者、ベルナール・スティグレールに嵌っています。
彼は技術と科学を峻別しています。そして科学が技術にすり寄り、技術科学に成り下がっているのだと。
技術は当然のこととして営利が大きな動機となりますが、科学の目的も営利的になってしまった。
スティグレールは、知が発現する順番として、美・善・真となるといっています。
科学は、知の真の部分を担うものでしょう。
真を追求する哲学からの流れが、科学に強く波打っています。
一方で技術は、美・善・真の全てにかかわります。
技術は、スティグレールによれば、より人間と本質的な関わりがあります。
さて、科学の祖とされる哲学は、技術をそのスタート時点から忌み嫌ってきました。
ソクラテスは技術を、亡国のソフィストがまくし立てる詭弁と同じものと見做して、強く反発したそうです。
彼にはイデアという人間にとっての形而上学的なものの反対に、技術をおいた。
これは哲学の伝統のようです。
先日、高名な思想家・哲学者の西部邁さんのTVを拝聴しましたが、あからさまな技術蔑視の言動でした。
この番組が、原発推進派のパネリストを迎えての議論だったので、強い違和感を感じました。
西部邁さんも、真善美を意識しておられますが、哲学(真)、宗教(善)、および芸術(美)、と決めつけるところに、大きな限界がるように思います。
この科学と技術の優位性の位置づけが日本人の知的エリートの重心を歪め、さらに、日本人の強いバランス思考の弊害が、原発の過度な安全・安心信仰や竹槍精神の構造を生んでいるのだと、考えます。
また、安易なバランス思考は緻密な議論を嫌う不毛な2項対立を生み、国を危うくするばかりです。
小生はブレンド思考を強く主張していますが、本来、技術と科学とはブレンドしてこそ大きな価値を生むものだと考えます。
それがこの両者をバランスしてしまうことによって、先ず、科学の”真”を追求する真摯さを、日本人は大きく損なってしまった。
それは今回の福島の原発にいたる日本の原子力に対する科学者の堕落を見てもあきらかです。
一方で、技術のほうも大きく堕落してしまった。
自然の真実を科学に任せっぱなしで、思考を停止し、備えるべき現場力を全て蔑ろにして平気だった精神構造は、技術自身で真を追求する姿勢が重要であることをすっかり放棄して、人災となってしまいました。
結局、”科学技術”というくくりが、お互いを甘えさせ、正体の知れない曖昧な原子力村の構造に仕上げてしまったのだと思います。
科学的な世界と偶有性の調和を図るのが技術。 技術それは技術よりも遥かに豊か
偶有性とは、科学が推し量る確率・統計のマクロ・モデルとは全く視座が反対の、個々の事情からの、世界との接点です。自分の人生や今回の大震災など、当事者の側からのものの見方です。
人間は、突然、独りでこの世界に投げ出され、独りで去っていきます。
しかも、プロメテウスから、双子の弟エピメテウスに委託された生命の種の特性の分配が、エピメテウスの粗雑さの故に、特性を獲得することなく、人間種として出来上がってしまった。
それに驚いたプロメテウスが、神から盗んだ火、技術を人間に与えた。
それ故に、人間は技術とともにあり、技術が無ければ何物でもなく、技術も偶有性のものなのです。
強い偶有性と技術の意識こそ、現場力なのです。
ということで、技術と科学の区別を意識して論じよう -1, 2 を閉じます。
これ以降、このテーマは哲学への憧憬のスレッドで、のんびりと書きなぐって行きたいと思います。
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