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歴史への回帰
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 神話/足跡/そして日本に山河有り
中島丈夫の歴史への回帰
歴史ほど夢とロマンに満ちた世界はありません。徒然なるままに過去に思いを馳せたいと思います。
もっとも歴史は大好きではありますが全くのど素人です。所詮ど素人の知識なのですから、思う存分思考回路を逆転させてみようと思います。フィクション/ノンフィクションの境界を無視して時間と空間をさ迷い、イメージと直感の古代史巡りに出発します。
一方で、文献参照やイメージ引用などの面で適切さを欠く場合が心配です。よろしくご指導の程お願いいたします。



古代史に於けるアーキテクト論. 聖徳太子は何故天皇にならなかったのか -1

2010年10月05日記述


 突然アーキテクトなどという言葉をこの歴史のスレッドに持ち出して恐縮です。
しかも聖徳太子の天皇非選択論などを重ねるなど、突飛さもいい加減にしろ、と御叱りを受けそうです。
一方で、アーキテクトを建築系の言葉に限って考えられている方々には、別段怪しげでもないかもしれません。聖徳太子と法隆寺建築様式などの関係を連想すれば、そんなに突飛な話でもないでしょう。

 ここでは、アーキテクトを、一般的に、アーキテクチャを創りだす人、設計する人を指す事にします
アーキテクチャとは、都市や建造物、IT(Information Technology)、情報 システムなどの、基本構造・仕様のことをいいます。青写真とかグランド・デザインとか呼ばれる、ものごとの全体像の設計仕様のことです。仕様とは、志向や指向と呼ばれる方向性・特性を持った、規律的な精神の表象したものごとを指します。それが置かれた世界や環境との境界やインターフェースにも言及します。

 小生は、ITアーキテクチャやアーキテクトの論考を小さな大学院で論じていますが、多難な日本の現状と未来を憂えるうちに、日本国家アーキテクト待望論に行き着いてしまいました。
新しい日本のリーダー像です。
そしてそれが、何故か遥か古代の遣隋使などに見る聖徳太子の事績に想いが繋がったわけです。
特に、昨今の尖閣列島問題を経験した日本の、対中国での将来の行動様式を考える時、隋・唐という当時の膨張する東アジアの超大国に対峙した、日本国の戦略や行動に想いが及んだわけです。
ドン・キホーテのクエスト(旅)が、突然古代日本にワープしてしまいました。
ワープすると共に、ブログでは政治的な発言を控えるというストイックさも、置き忘れてしまいました。

アーキテクト待望論.それは21世紀に切り込む新しい日本人リーダー像

 アーキテクトというのは、システムの不連続や不安定期に対応して、新しい世界を構想、創出するリーダー像だと考えています。従前のシステムの綻びが顕在化して寿命が尽きたり、新しい環境に対応出来なくなった時、古い革袋を捨てて、新しい革袋を設計し、それを具現化するリーダー像です。

 その文脈で、現代のアーキテクトとして吉田茂を思い浮かべます。
20世紀の半ばにして、明治維新後の右肩上がりの成長路線を辿っていた日本が、第二次世界大戦という不連続で壊滅的な打撃を被り、民族のどん底の経験をしたわけです。
しかし吉田茂という構想力実行力を兼ね備えた戦後復興の国家アーキテクトを得て、日本は見事に蘇ることが出来ました。小生はそう考えます。

 そしてその成功を礎として、新たな成長があり、その安定期に育った現在のリーダー達は、歴史的な構想力を欠いた、近視眼的な実務能力偏重の能吏の時代に嵌ってしまっているように見えます。
例えばIT業界では、ITシステムを構築する現場監督の役割的な、PM (プロジェクト・マネージャ)が、あるべきリーダー像として大きな比重を占めてきました。目的を強く意識した枠の中での、失敗のない、減点回避の実務能力重視のリーダー像です。
大きな方向性、枠組みは暗黙のうちに決まっていて、その垣根の範囲の中で、個々の案件を如何に上手にマネージするかがリーダーの仕事である、という時代が永く続いてきたように思います。
平時のリーダーシップ論ですね。そして、官僚(主義)主導の時代です。
 不連続システム勃興や乱世の波乱を乗り越えて、既存の枠を踏み超える新世代への出発をリード出来るリーダー像は、残念ながら見えない。それは今のリーダーに構想力が無いからだと考えます。
アーキテクチャを創出できない。未来を描けない。それ故に創造的現状破壊ができない。
皮肉な事に、ITのPMを創出したリーダーにはそれがあったわけです。その結果、現状がこうなった。
ITの技術サイクルが間断なく回っているということの証しだと考えられます。

 悲しいことに、安定期を牛耳る官僚主導の政治力学からの脱皮を付託するのに、豪腕と呼ばれる政治リーダーにも構想力が一向に見えません。何を何のためにするのかというビジョンの旗が全く立っていません。アーキテクチャが無いままに我々を何処に導こうとしているのか。
方向性を明示できないままで、剛腕とは何なのか。小生にはそんなリーダー像が不思議でなりません。
澄んだ英知が先ず要求される動的で開いた世界環境で、どうしてそんなリーダー像を熱望するのか。

 司馬遼太郎さんが描くリーダー像には2種類あると思います。
意思決定のリーダー・シップの典型例が、坂の上の雲で描かれる大山巌元帥の姿です。
日露戦争の間只中、ロシア陸軍との死闘の最中に、豪胆さで軍団を統率するリーダー像です。
雨あられのように両陣営が砲弾を打ち合う最前線で、「今日は何やら騒がしいのう」、と気合を抜いて、血気が沸騰している参謀の頭を冷やさせるリーダーシップです。日本的リーダーの典型です。
しかし意図的なのかも知れませんが、構想力がよく見えない。
そして、大山巌元帥のリーダーシップが日本を救ったとは司馬遼太郎さんは描いていない。
大将から降格して参謀となった児玉源太郎だと描いています。
構想力を兼ね備えたリーダー像は児玉源太郎です。彼の知力と実行力で日本は救われたという。
小生はこの児玉源太郎をアーキテクトだと考えます。腕力と共に大きな絵が彼の頭に描かれていた。

 右肩上がりの明日への希望が萎んでしまい、閉塞感が漂う一方の日本の現状では、日々の一つ一つの偶有的な課題解決を重視する丁寧なリーダー・シップも重要です。
しかしそれはコンペンセイションのプロセスであって、やはり補完的なものなのでしょう。
特に中国や韓国という隣国が大きく伸びていく関係論の中では、限りない精神の委縮、負のループに陥る可能性が高い。それが今回の尖閣列島問題で一気に顕在化したのだと思います。
未来が突然その全貌を現したわけです。

 ということで、やはり、未来への展望や、国際関係を基礎に置いたグランドデザイン、大袈裟ではありますが、日本国家のアーキテクチャ作りが、今、必要なのだと考えます。
その意味で、(政治)リーダーにとっても、アーキテクト資質が重視されるべき時だと考えています。
リーダーのビジョンの構築とそれを踏まえた実行は、直近の尖閣列島問題に発する対中国の、日本のこれからのwin-winの関係施策を揺ぎ無いものにするためにも、喫緊の課題だと考えます。

 実はこのブログを書き始めたのが7月31日。ずいぶん永く途中で投げ出していました。
終戦記念日も、お盆も過ぎて、またタイミングを外してしまったようですが、今年の国会議員の靖国神社参拝の色模様を見るに及んで、このブログへの思いは逆に強くなりました。
いつまで先送りするのか。
また、管さんと小沢さんの民主党リーダー、首相選出の騒ぎにも、考えるところが多くありました。
そして徹底的な小生の執筆への動機は、尖閣列島問題から垣間見える中国の志向です。
小生の想いは、あの有名な、”東の日出る国の天子、西の天子に申す.つつがなきや”、の文言に強く引き寄せられたのです。

聖徳太子は、仏教ismを国家建設の精神と技術に置く、グローバル時代のアーキテクト

 手元に、遠山美都男さんの、”聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか”、という書籍があります。
歴史的には、聖徳太子が天皇になっていたのか、なっていなかったのか、或いは聖徳太子そのものの実在を疑う論議まで色々ありますが、プロ中のプロである遠山さんの説が一般認識だと思います。
 しかし小生は、素人の突飛さを味方にして、聖徳太子は自身の判断で天皇にならなかったのだ、と云う見方を、聖徳太子国家アーキテクト論と交えて提唱します。
 天皇たる道を拒み、国家設計技術者としての道を選んだ聖徳太子像を論じたいと思います。
6世紀の偉大なる国家アーキテクトとして、聖徳太子を取り上げてみたい。

話が長くなります。今回は予告編ということで、取りあえず筆を措きたいと思います。




阿久悠さんと共有だと錯覚した淡路島の原風景.物部氏古代史へのとば口

2010年7月05日記述


 歴史への回帰のスレッドは、書き始めてから一年以上になりますが、やっと3コマめとなります。
なんという体たらくだと自分でも呆れるばかりなのですが、古代史の世界は,、ど素人が踏み込むには余りにも敷居が高すぎて、頭で考えていたように気楽に書きなぐることなど、とてもできませんでした。
あれこれ考えあぐねてWebを覗くと、多彩なブログが圧倒的なボリュームで襲ってきます。
そもそも小生のチマチマした生半可な古代史の寸評など、何のために書こうとしているのか、自分でも理解不能の状態です。 IT屋はIT屋に籠っていればいいのにと自分を罵しりながら筆を取っています。

 とにかく、アプローチが無理無理なんですね。
小生が昔垣間見た淡路島の原風景の、あやふやな揺らぎの隙間から、古代史に、特に正史に入り込もうという、大胆な企画がとてもいかがわしい。
あまり特色もない淡路島の遺跡から、1500年の時差を一気に飛び越えようなどと、徘徊老人の妄想の極みです。
が、それがドン・キホーテ流のMy Quest なのだ!、と自分に云い聞かせながら、もう少し歩んでみます。ヨボヨボしながらですが。

 何故古代史にそんなにまで拘るのかといえば、まずその限りないロマンの甘みに抗しがたいこと。
二つめには、その時空を超えた古代への視界が、50年前にはどう見えていたかを記しておきたい
Webには仰天する程、現在見える記録、写真が溢れているのですが、50年前に小生が見た景色、空気、風の香りとは大きく違っているのに驚かされます。
高々50年とはいえ、風景が物凄く変わってしまっています。
1500年に遡るのに、50年などは誤差の範囲なのは解っていますが、でも、やはり違う。
特に淡路島の場合には、橋が架かってから全く景観が変わってしまった。
もっとも、架橋に付随した工事で、50年前には見えなかった遺跡・遺物が数多く発見されてはいます。
三つ目は、中島流の自由勝手気ままな推論・詭弁で、未解決の歴史を解読したい。
淡い希望です。

で、今回は阿久悠さんという超ビッグネームを持ち出して少しでも耳目を集めようと書きだしています。我ながら、あまりの浅ましさに、うっとりとしてしまいます。否、間違いです。恥じ入っています。

 阿久悠さんは洲本高校出身で、小生の先輩です。昭和30年卒ということなので、小生の姉の一期上にあたります。
鮎原村の出身とのことですが、実は小生の母方の中島姓は鮎原村出身だそうです。
いや~、、還暦を遥かに過ぎた老人のミーハー度もかなりなものですが、どうだ!、という感じですね。

少し脱線しますが、小生は大学卒業寸前までは深津丈夫でした。この姓は父方で愛知県出身です。
(阿久悠さんの本名は深田さんです。一字違いです。....怖いコダワリですね)
で、大学卒業寸前に学生結婚し、母方の中島姓に改名しました。
悪いことに、結婚相手も中島姓で、故郷の同窓生は、小生を養子・入り婿だと言って憚りません。
本当は違うのです。結婚の(ほんの)少し前に母方の養子(?)になったのです。
母は町医者でしたが先方もお医者さんでした。?、何かコンガラガッテ、よくわかんなくなってきました。
ま、いずれにしても、実権は今も昔も先方、結婚相手の方(かた)にあります。
結構苦労の多い人生なんです。

いつもながら話が長くなって、本題を外してしまいそうですが、当時の風景の筆写から始めます。

瀬戸内少年野球団の1シ-ンから巡る淡路島の原風景
 このコマの出発点は、阿久悠さんの 『瀬戸内少年野球団』の映画の1シーンから始まります。
1年以上前のことですが、TVでこの名画を観劇中(?)、郷ひろみ さん扮する白衣の傷痍軍人が松葉杖に寄りかかりながら登場した時です、小生はあまりの衝撃にのけ反ってしまいました。
これ、これって、自分の目で見た、この目に焼き付いているシーンに瓜二つじゃないか!
ひょっとして、あの時、阿久悠さんも小生と同じ場所にいたのではないか?

 あの時、小生は幾つだったのだろう。 
5歳ぐらいの鼻ったれ小僧真っ盛りの頃だったような。。。
小生は昭和19年生まれ、1944年生まれですから戦後も間もないころですね。
今から60年も前の、微妙に掠れ、揺れ動く風景です。
少子化で頭を抱える昨今と違い、当時は子供たちは子供たちで群れていたような記憶があります。
大人達は生きるのに精いっぱいだったのでしょうが、田舎の子供たちには違った世界がありました。
昭和19年生まれなどというと、お前の両親はどこでなのをしていたのだ、と叱責されそうですが、そんなことは小生には答えようがありません。
ま、当時子供たちは結構元気だった。
 小生が住んでいたのは下屋敷町の外れで、その真横から曲田山が始まり、少し足腰がまともな年齢になると、子供たちで、群れに任せて山に攻め上ぼるのが日課でした。
山とはいえ標高が80m程度の丘陵みたいなものなのですが、幼い子供たちには夢と冒険の国、自由半分、怖さ半分の”ネバーランド”でした。
特に曲田山は、その名が顕すように、昔、勾玉が一杯出たという、遠い歴史に繋がっていました。
そして、古墳もあった。
 子供たちには自分たちが住み着いた町々で既にお互いのテリトリーが決まっていて、そこをはみ出すことはタブーの強い掟がありました。それはほんの数十メートルの、子供たちが走り回れる範囲でした。
しかしこの曲田山は未だ最終的に誰の領分とも決まっていなかったのでしょう、子供たちは裾野の其々の切口から攻め上っていったのです。
 幼い、一番下っ端の小生には知る由もありませんでしたが、どっかで決まり事があったらしく、我が下屋敷隊は銘々、手作りの木の刀を腰に挿しながら、決戦の場に繰り出そうとしていました。
確か古墳を目指していたように思います。
そして、あの原風景に出くわしたのでした。

 山道を登り切って、さあ隊列を整えようとしていたその時、田んぼの遥か先のあぜ道に、敵と思われる面々が一列になって姿を現しました。
そしてその先頭に、白衣の傷痍軍人が松葉杖に寄りかかりながら登場したのです
あっという間に、小生たち下屋敷隊は、逃げ散りました。
蜘蛛の子を散らすように、坂道を駆け下っていました。 表現が不適切ですが、鬼をみたのです。
最下位の一兵卒だった小生には何が何だか理解出来ませんでしたが、遥かなあぜ道を白衣でマントをなびかせながら半歩半歩前進してくる傷痍軍人の松葉杖姿が、強く強く目に焼き付けられていました。

 しかし、しかしです。このスレッドを書く段になって、もう一度しっかりと『瀬戸内少年野球団』のくだんのシーンをつぶさに検討、記憶と照らし合わせてみました。
で、ア~ァ、残念ながら、違うことを確認しました。映画とはイメージが微妙に違うのです。
見たのは違う風景だった。あの時の我が年長のリーダーの中に阿久悠さんはいなかったようです。

曲田山の古墳は物部氏一族のものなのか

 この遠い記憶の彼方で、小生のイメージを縛り付けているのは、傷痍軍人の松葉杖姿と、古墳です。
やはり言葉が適切ではありませんが、鬼の記憶と、古代へのトンネルです。
その時の子供たちの主戦場は、曲田山の古墳だったのだと思います。
当時の幼心に、そのような会話が刻み込まれています。
しかし、この時を最後にして子供たちは、もうそのテリトリーに仕掛ける事は全くありませんでした。
 
 かなりの年月を経てから、小生も成長し、この曲田山を我が庭のごとく駆け回っていました。
曲田山の向こうには三熊山があって、その山頂にある山城をグルッと駆け回ってくるのがコースでした。
いつもながらの一人っきりで、富士と名付けた真っ白な紀州犬の愛犬と絡みながら駆け回っていました。
もうそのころには、こんな小さな山里など、誰も興味を示していませんでした。 全く誰もいなかった。
 ある日、ひょい、っと、くだんの古墳のことを思い出しました。
そして、結構な苦労の末に、遂にその古墳を発見しました。50年以上前のことです。
山並に広がる棚だなの端っこにある小さな丘のような風情の中で、それは確かに存在していたのです。
その瞬間、幼いころの淡い記憶を辿ってやっと見つけただけに、かなりの感激でした。
そしてこのスレッドが白昼夢でないことの証しでもあります。 幼心と伝承の、ある種の絡まり合いです。
学校の誰に教わったこともなく、幼い頃の体験以来誰とも話したこともなかった。 トロイの発見です。
(Webを引くと、驚いたことに、この曲田山古墳がマニアの方のサイトに写真入りで出てきます。でもその写真を流用するのは止めました。 それにしても、何もかもがコモディティになってしまったのですね。)
 
この古墳に関するもう一つのエピソードは結構奇妙なもので、きっと小生だけの体験でしょう。

 ある冬の寒空の下、しばらく立ち回っていなかったくだんの古墳を訪れてみました。
田んぼのあぜ道に沿って入口が開いている古墳を覗いて、仰天してしまいました。本当に驚きました。
あろうことか、そこに、人が住んでいたのです。
七輪と鍋があって、その他にも結構生活用具が散在していました。
幸いにしてその時、住人は留守でしたが、誰かが住居にしている風景が今でも眼に焼き付いています。

 人が住めるぐらいでしたから、この古墳は結構な大きさ、堅牢さでした。天井には閊えません。
後日、飛鳥の蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台に入り込んだ時には、曲田山の古墳を見直しました。
勿論そのスケールは比べようもないのですが、曲田山古墳の天井石の立派さに改めて感心しました。
考古学の資料によると、円墳(径10.80 m 高さ2.00 m) 横穴式石室( 片袖8.44m×1.72m、高さ1.93m)
だそうです。
 この古墳のある地域は、上物部と呼ばれ、なだらかに下った丘陵の先にある千草川を隔てて、物部の町に繋がります。
横穴式石室や、その土地の名称から、物部氏一族の古墳であることは間違いないと思われます。
しかし一切の伝承や、神社のようなものは伝えられてはいません。
捨てられ、忘れ去られた墳丘だけが、田園風景の中に小山として溶け込んでいました。
ひょっとしてあの傷痍軍人の姿は、傷ついた物部のもののふの幻影だったのでしょうか。

物部氏は疎外された民なのか. それとも第一次渡来系弥生人の一般名称なのか

 続きは新しいブログにしてブログ数を稼ぐことにします。
またはぐらかしになってしまいましたが、目標は、海人族と大王家の絡まりの解明にあります。
で、今のところ、物部氏は海人族でも鬼でもないと考えています。理由は次のブログで書きます。

 余談ですが、前のブログで九海士の浦から淡路島の沼島が見えただろうと書きましたが、勿論現代の空気の澄みようではあの距離で見える筈はありません。
しかし当時は確実に見えたと思います。
ある大きな台風一過、淡路島・洲本の浜辺から、小生は大阪湾越しに対岸の大阪の街並みを、はっきりと見た経験があります。




古代史への憧憬.海人族が大王家と絡まる風景 -1

誰がこの風景を見、古事記の国生み神話に書き写したのか

2010年01月03日記述


 歴史が好きだ、特に古代史が好きだ、という単純な思いだけでこのスレッドを作り、最初のブログを書いてから既に6カ月が過ぎ、なんと年を超してしまいました。
反省の意味も込めて、2010年のラマンチャ通信の発信は歴史への回帰から始めたいと思います。
先ずはラマンチャ通信を見てくださっている方々に年賀の挨拶をさせていただきます。

 

年賀にかける思いは、2010年の節目を迎えて、多難な日本の新生への願いです。
不安と苛立ちに満ちた2009年のしがらみを全て脱ぎ捨てて、日本建国の気力充実で再スタートしたい。
という事で年賀状は、記紀の巻頭を飾る日本建国の国埋み神話をモチーフにしてみました。
日出ずる国から、さらなる日出ずる東に向かっての出発です。
大海原に向けた、海人族の冒険と浪漫に溢れる初心への回帰です。My Quest です。
年賀状は、Yahooから拝借した沼島の上立神岩と大海原の写真を素材に合成しました。
沼島の上立神岩の向こうに拡がる大海原は、本当は真南の太平洋に通じるのですが、イメージでは東の方向に向けています。

今、大人気の沼島の風景.43年前に波間から見た国生み神話の原景

 一応、国生み神話を古事記に辿ってみす。
日本建国の国埋み神話は、伊弉諾(イザナギ)とその妹・伊弉冉(イザナミ)の男女 2柱の神が天の浮橋に立って、天沼矛(あめのぬぼこ)で渾沌とした大地(海に浮かべる脂))をかき混ぜることによって展開していきます。
海水を こをろこをろ とかき混ぜているうちに、滴り落ちた塩が自然と固まって出来たのが淤能碁呂島(オノコロ島)です。このオノコロ島は国生みのための抽象的な島と考えられていますが、伊弉諾と伊弉冉はこのオノコロ島に降り立ち、男女の性的な行いによって次々と日本の島々を生んでいきます。
先ず最初にきちんと創生された島が淡路島、そして四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州とする日本の大八島の国を構成します。
淡路島には製塩の遺跡が沢山あり、この神話構成の中心にいるのは確かなようです。
  何回も述べていますように小生は淡路島(洲本市)出身ですが、大学4年の夏にユダヤ人(イスラエル)の友達を誘って、沼島に舟釣りに行きました。沼島は前後して何回も訪れているのですが、この時は屈強な漁師さんが沼島の南側に回り込み、初めてこの奇岩奇勝を見せてくれました。
無口な漁師さんは余計な事は何も言いませんでしたが、小生は水面にそそり立つ上立神岩の荘厳さにショックを受けました。あの時の驚愕は43年も前の事ですが未だにはっきりと覚えています。
本居宣長による、尋常ならずすぐれたものが日本の神の定義だとすれば、これはまさにそうでした。
43年も前で、全くの秘境の風景でしたから強烈でした。(この立ち岩は高さが30m(?)もあるそうです)
さらに沼島の南壁の水の岩窟に案内してくれました。確か上立神岩のすぐ近くだったと思います。
潮の干満で船を近づけるのが危険だというので、ザンブと船から飛び込みその岩穴に泳ぎ込みました。
岩窟の中に泳ぎながら侵入すると中はまるで鍾乳洞のようで、胎内にいる感覚の静けさでした。
当時は秘境中の秘境の景色でしたが、今ではそれらの風景が以下の写真のようにWebサイトにいろいろとアップされています。いや~、驚くほどのにぎわいになっています。

 
 

西郷信綱さんの「古事記注釈」を読んでいると、この伊弉諾・伊弉冉の国生みの流れの中でのかなり多くの古事記の記述が、男女の陰部の比喩に費やされているのがわかります。
文章のままだと何か浮いた感じがしますが、上の写真の実景を踏まえると、古事記がこの情景を筆写している事が自然に納得できます。古事記の著者はこの景色を実際に見ていたのでしょう
上立神岩はまた、伊弉諾・伊弉冉が声を掛け合いながら回った天の御柱にも比定されています。
実は立ち岩にはもう一つ、より高い下立神岩というのがあったそうです。この岩は、古い地層の故に、残念ながら安政元年の地震によって潰えたのだそうですが、このような立ち岩の風景は国生みで記述されている天乃常立神や国乃常立神に見立てられたのでしょうか。
43年前の静寂の中でこれらの海と島の風景に接した小生にとって、沼島がオノコロ島に100%の確度で比定出来ることは疑う余地もありません。家島も淡路島から望まれますが違うと思います。
ということで、イメージと直感の古代史巡りの出発です
 その上で、小生にとっての最大の関心事は、誰がこの風景を見、古事記の国生み神話に書き写したのかという点にあります。それが記紀の著者の実像を浮かび上がらせる一つの方法のように思えてなりません。記紀にも虚実の記述があるとすれば、その動機と当時の景色を追求してみたい。
もともと淡路島に海人の伝承があって、それを書き写したのだという説明にはとても与し得ないのです。
紀貫之が土佐からの帰路で見たのだろうか、とか、いろいろな海人族の歴史などを舐めていたのですが、時間軸などの点で全く手掛かりはありませんでした。

大晦日の偶然の発見.国生み神話の風景は藤原宮子にまつわる海人族が実写?

 実は昨年の暮れに一念発起して、昔読んだ色んな古代史ブックを読み漁り、結構長めのブログを書きあげていたのですが、あろうことかバックアップを逆に取ってしまい全てが水泡に帰してしまいました。
ITの風景やeCloud研究会のスレッドも、Webの手ごたえが今一つ掴めすで書いては捨てのスランプ状態に陥り、結局、昨年暮れは何も書く気力がなくなってしまっていました。
故(ということで)、昨年の暮れは半分以上が失意の中で、老体に鞭打ちながら積年のゴミがうず高く積まれた自分の部屋の大掃除に格闘していました。
埃にまみれ、混沌とした本の山を整理しているうちに、梅原猛さんの「海人と天皇」という文庫本が目にとまりました。昔読んだ筈だったのですが内容は全く覚えていませんでした。
梅原猛さんはこの本で、”藤原宮子が紀伊の国日高郡の九海士王子の里の海人の娘である”という伝承が確かなものである事を強く主張されていました。宮子は文武天皇の夫人で聖武天皇の母です。
小生はこの記述をパラパラとめくりながら読み飛ばした時点では、なんの反応もしなかったのですが、2010年に入ってもう寝ようかなと思った瞬間に思いつき、アレ~、、っという事になってしまいました。
下のGoogle mapのAは、宮子を慰めるために彼女の故郷の近くに、文武天皇が紀道成に命じて建立したという道成寺の位置です。この近くには、日ノ御碕やいろんな小さな岬があります。宮子の出身地と言われる九海士の浦はこの辺なのでしょう。
そして、、、それらの岬の大阪湾側の対面に淡路島、沼島が見えているではありませんか 
下図で淡路島の南端にくっついているのがくだんの沼島です。
さらに気になるのは、ここに(紀伊の)由良町の浦があり、紀淡海峡の淡路島側にも由良町の浦があります。淡路島側の由良町は、時代が下りますが1350年に熊野水軍の安宅氏が進出した浦です。
この付近の紀氏の海人族が沼島の風景を海上から見ていたのは確実でしょう
そしてその原像が、記紀の著者に権威として持ち込まれた。

 

 藤原宮子が藤原不比人の娘(養女?)として文武天皇の夫人に上ったのが697年。
701年(大宝元年)には文武天皇が紀伊行幸し、その年に宮子が首皇子(聖武天皇)を生んでいます。
712年に古事記が完成し、720年に日本書紀が完成しています。
文武天皇の夫人である宮子が九海士の浦の海人の娘であるとすれば、記紀の著者達が沼島の風景を直接見たり間接的に受理したりした事績は確実なように考えられます。
この論の根拠は、紀伊の伝承と梅原猛さんの鋭い論考の上に成り立っていますが、おこがましい云いようですが逆に、ここでの国生み風景のイメージが梅原猛さんの推論の傍証になるのかもしれません。

応神王朝論考への展望

 この海人族と天皇系との関わり合いを取っ掛かりにして、古代の海人族と天孫族とのもつれにイメージを膨らませていきたいと思います。 
九海士の浦の伝承は、神功皇后が三韓征伐の帰途、この地に9人の家来を残していったことに始まります。この9人が海人になった(?)ということです。
上の地図を見ていただければ解りますが、神功皇后が大和への帰途で瀬戸内海を直接東進してきたのなら、何故こんな浦に回り道して立ち寄ったのでしょうか。摂津で待ち受ける忍熊王との戦いを避けるのが理由だったのでしょうか。それにしても紀伊水道の大海原が気になります。
違った伝承には、三韓出兵の帰途瀬戸の海上で突然の嵐に遭遇した神功皇后が、お告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝して宝物を友ヶ島の神島(淡島)に奉納したとあります。
友が島は紀淡海峡の和歌山県側にあります。その他紀の国には神功皇后の三韓征伐の帰途での伝承が多くあるそうです。
下図は明治時代初頭(1880)に描かれた神功皇后の三韓征伐の図ですが、気になるのは背景の立ち岩の絵です。どう見ても沼島の上立神岩の写真にそっくりです。
勿論、戦前の国家神道の世界観とは無縁な小生ですから、イデオロギー無しの絵として見ています。
その上で、絵の作者のイメージの裏側に何があったのか興味が湧きます。

 

 Google mapを見て言えることは、淡路島が明石海峡、鳴戸海峡、紀淡海峡の3つの狭い海峡を挟んで瀬戸内海と大和・河内の地勢を大きく遮断する形にあることです。
今までは瀬戸内海の動線ばかりが議論されてきましたが、日向や熊野、伊勢、尾張を繋ぐ太平洋ベルトを、神話を結ぶ聖なるラインとして考察の対象に取り上げたい思っています。
少々突飛ですが、魏志倭人伝の使者ですら、このラインを迂回して辿った可能性も考えられます。

追記:
根っからのIT屋ですので、古代史などに顔を突っ込むのはおこがましい限りなのがよくわかりました。
とにかく、Webを覗くと、もの凄い猛者の方が山のようにおられるのがよく解りました。
マイペースで、少しづつ思考回路を深めていきたいと考えています。



淡路島で国内最古級の鉄器工房跡が発見された! 海人族の工房なのか?

2009年6月09日記述


小生は淡路島出身ですが、このニュースには仰天しました。そして、やっぱりそうなんだ、とほくそ笑みました。ここぞとばかり、”淡路島が邪馬台国だ!”と狼煙をあげようと目論んでいたのですが、先日、箸墓古墳の土器鑑定結果が出ていよいよ纒向遺跡の邪馬台国本命説が強くなりました。残念ながらこの奇説は諦めます。一方で、この大和政権と淡路島の関係の深さに興味が湧いてきました。
神話におけるオノコロ島としての位置。そして毎朝、御井清水の聖水を仁徳天皇、河内王朝(?)の大王に運んだという伝承。また先山という淡路富士の頂上にある先光寺縁起が狩人(大王?)の鹿狩りでたどり着いた末に観音さまとして開山したという伝承(曖昧ですが...)。...
疑問は、何故鉄器工房が不便な島にあるのかです。理由の一つは倭大乱での高地性防御にあたる守りの現れなのかもしれません。もっと可能性の高いのは、大和王権(河内だけ?)の海人の属性なのでしょうか。継体王朝が騎馬民族王権の回帰だとすれば、失われた4世紀の河内王朝は海の民の滅び去った王権の軌跡なのかもしれません。海から見えたであろう河内王朝の巨大古墳群は海人のロマンだったのかもしれません。これも消えかかる記憶の彼方にある傍証ですが、淡路島の北端には”伊勢の森”という地名があったとおぼろげに思い出します。(現在はいくらグーグルマップを追いかけてもなんの痕跡もありません)。ある本で見た記憶では、この伊勢の森が宇佐八幡宮と紀伊の伊勢神宮と一直線の同緯度の地点にあると書いていました。宇佐八幡宮の祭紳が、確か隠岐の島の三女神である事と、同時に祀られる応神天皇、神功皇后との力のバランス。そして応神と神功の対局にある仲哀天皇が伊勢神宮と因縁の深いヤマトタケルの第二子であること。仲哀天皇と神功皇后との軋轢が、海人族と騎馬民族とのもつれ合いを示しているのかもしれません。大陸系正統の扶余の王族が海を渡るにつけ、海人族との強い結びつき、そして歴史の深いもつれ合いがあったのでしょうか。