誰がこの風景を見、古事記の国生み神話に書き写したのか
2010年01月03日記述
歴史が好きだ、特に古代史が好きだ、という単純な思いだけでこのスレッドを作り、最初のブログを書いてから既に6カ月が過ぎ、なんと年を超してしまいました。
反省の意味も込めて、2010年のラマンチャ通信の発信は歴史への回帰から始めたいと思います。
先ずはラマンチャ通信を見てくださっている方々に年賀の挨拶をさせていただきます。
年賀にかける思いは、2010年の節目を迎えて、多難な日本の新生への願いです。
不安と苛立ちに満ちた2009年のしがらみを全て脱ぎ捨てて、日本建国の気力充実で再スタートしたい。
という事で年賀状は、記紀の巻頭を飾る日本建国の国埋み神話をモチーフにしてみました。
日出ずる国から、さらなる日出ずる東に向かっての出発です。
大海原に向けた、海人族の冒険と浪漫に溢れる初心への回帰です。My Quest です。
年賀状は、Yahooから拝借した沼島の上立神岩と大海原の写真を素材に合成しました。
沼島の上立神岩の向こうに拡がる大海原は、本当は真南の太平洋に通じるのですが、イメージでは東の方向に向けています。
今、大人気の沼島の風景.43年前に波間から見た国生み神話の原景
一応、国生み神話を古事記に辿ってみす。
日本建国の国埋み神話は、伊弉諾(イザナギ)とその妹・伊弉冉(イザナミ)の男女 2柱の神が天の浮橋に立って、天沼矛(あめのぬぼこ)で渾沌とした大地(海に浮かべる脂))をかき混ぜることによって展開していきます。
海水を こをろこをろ とかき混ぜているうちに、滴り落ちた塩が自然と固まって出来たのが淤能碁呂島(オノコロ島)です。このオノコロ島は国生みのための抽象的な島と考えられていますが、伊弉諾と伊弉冉はこのオノコロ島に降り立ち、男女の性的な行いによって次々と日本の島々を生んでいきます。
先ず最初にきちんと創生された島が淡路島、そして四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州とする日本の大八島の国を構成します。
淡路島には製塩の遺跡が沢山あり、この神話構成の中心にいるのは確かなようです。
何回も述べていますように小生は淡路島(洲本市)出身ですが、大学4年の夏にユダヤ人(イスラエル)の友達を誘って、沼島に舟釣りに行きました。沼島は前後して何回も訪れているのですが、この時は屈強な漁師さんが沼島の南側に回り込み、初めてこの奇岩奇勝を見せてくれました。
無口な漁師さんは余計な事は何も言いませんでしたが、小生は水面にそそり立つ上立神岩の荘厳さにショックを受けました。あの時の驚愕は43年も前の事ですが未だにはっきりと覚えています。
本居宣長による、尋常ならずすぐれたものが日本の神の定義だとすれば、これはまさにそうでした。
43年も前で、全くの秘境の風景でしたから強烈でした。(この立ち岩は高さが30m(?)もあるそうです)
さらに沼島の南壁の水の岩窟に案内してくれました。確か上立神岩のすぐ近くだったと思います。
潮の干満で船を近づけるのが危険だというので、ザンブと船から飛び込みその岩穴に泳ぎ込みました。
岩窟の中に泳ぎながら侵入すると中はまるで鍾乳洞のようで、胎内にいる感覚の静けさでした。
当時は秘境中の秘境の景色でしたが、今ではそれらの風景が以下の写真のようにWebサイトにいろいろとアップされています。いや~、驚くほどのにぎわいになっています。
西郷信綱さんの「古事記注釈」を読んでいると、この伊弉諾・伊弉冉の国生みの流れの中でのかなり多くの古事記の記述が、男女の陰部の比喩に費やされているのがわかります。
文章のままだと何か浮いた感じがしますが、上の写真の実景を踏まえると、古事記がこの情景を筆写している事が自然に納得できます。古事記の著者はこの景色を実際に見ていたのでしょう。
上立神岩はまた、伊弉諾・伊弉冉が声を掛け合いながら回った天の御柱にも比定されています。
実は立ち岩にはもう一つ、より高い下立神岩というのがあったそうです。この岩は、古い地層の故に、残念ながら安政元年の地震によって潰えたのだそうですが、このような立ち岩の風景は国生みで記述されている天乃常立神や国乃常立神に見立てられたのでしょうか。
43年前の静寂の中でこれらの海と島の風景に接した小生にとって、沼島がオノコロ島に100%の確度で比定出来ることは疑う余地もありません。家島も淡路島から望まれますが違うと思います。
ということで、イメージと直感の古代史巡りの出発です。
その上で、小生にとっての最大の関心事は、誰がこの風景を見、古事記の国生み神話に書き写したのかという点にあります。それが記紀の著者の実像を浮かび上がらせる一つの方法のように思えてなりません。記紀にも虚実の記述があるとすれば、その動機と当時の景色を追求してみたい。
もともと淡路島に海人の伝承があって、それを書き写したのだという説明にはとても与し得ないのです。
紀貫之が土佐からの帰路で見たのだろうか、とか、いろいろな海人族の歴史などを舐めていたのですが、時間軸などの点で全く手掛かりはありませんでした。
大晦日の偶然の発見.国生み神話の風景は藤原宮子にまつわる海人族が実写?
実は昨年の暮れに一念発起して、昔読んだ色んな古代史ブックを読み漁り、結構長めのブログを書きあげていたのですが、あろうことかバックアップを逆に取ってしまい全てが水泡に帰してしまいました。
ITの風景やeCloud研究会のスレッドも、Webの手ごたえが今一つ掴めすで書いては捨てのスランプ状態に陥り、結局、昨年暮れは何も書く気力がなくなってしまっていました。
故(ということで)、昨年の暮れは半分以上が失意の中で、老体に鞭打ちながら積年のゴミがうず高く積まれた自分の部屋の大掃除に格闘していました。
埃にまみれ、混沌とした本の山を整理しているうちに、梅原猛さんの「海人と天皇」という文庫本が目にとまりました。昔読んだ筈だったのですが内容は全く覚えていませんでした。
梅原猛さんはこの本で、”藤原宮子が紀伊の国日高郡の九海士王子の里の海人の娘である”という伝承が確かなものである事を強く主張されていました。宮子は文武天皇の夫人で聖武天皇の母です。
小生はこの記述をパラパラとめくりながら読み飛ばした時点では、なんの反応もしなかったのですが、2010年に入ってもう寝ようかなと思った瞬間に思いつき、アレ~、、っという事になってしまいました。
下のGoogle mapのAは、宮子を慰めるために彼女の故郷の近くに、文武天皇が紀道成に命じて建立したという道成寺の位置です。この近くには、日ノ御碕やいろんな小さな岬があります。宮子の出身地と言われる九海士の浦はこの辺なのでしょう。
そして、、、それらの岬の大阪湾側の対面に淡路島、沼島が見えているではありませんか!
下図で淡路島の南端にくっついているのがくだんの沼島です。
さらに気になるのは、ここに(紀伊の)由良町の浦があり、紀淡海峡の淡路島側にも由良町の浦があります。淡路島側の由良町は、時代が下りますが1350年に熊野水軍の安宅氏が進出した浦です。
この付近の紀氏の海人族が沼島の風景を海上から見ていたのは確実でしょう。
そしてその原像が、記紀の著者に権威として持ち込まれた。
藤原宮子が藤原不比人の娘(養女?)として文武天皇の夫人に上ったのが697年。
701年(大宝元年)には文武天皇が紀伊行幸し、その年に宮子が首皇子(聖武天皇)を生んでいます。
712年に古事記が完成し、720年に日本書紀が完成しています。
文武天皇の夫人である宮子が九海士の浦の海人の娘であるとすれば、記紀の著者達が沼島の風景を直接見たり間接的に受理したりした事績は確実なように考えられます。
この論の根拠は、紀伊の伝承と梅原猛さんの鋭い論考の上に成り立っていますが、おこがましい云いようですが逆に、ここでの国生み風景のイメージが梅原猛さんの推論の傍証になるのかもしれません。
応神王朝論考への展望
この海人族と天皇系との関わり合いを取っ掛かりにして、古代の海人族と天孫族とのもつれにイメージを膨らませていきたいと思います。
九海士の浦の伝承は、神功皇后が三韓征伐の帰途、この地に9人の家来を残していったことに始まります。この9人が海人になった(?)ということです。
上の地図を見ていただければ解りますが、神功皇后が大和への帰途で瀬戸内海を直接東進してきたのなら、何故こんな浦に回り道して立ち寄ったのでしょうか。摂津で待ち受ける忍熊王との戦いを避けるのが理由だったのでしょうか。それにしても紀伊水道の大海原が気になります。
違った伝承には、三韓出兵の帰途瀬戸の海上で突然の嵐に遭遇した神功皇后が、お告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝して宝物を友ヶ島の神島(淡島)に奉納したとあります。
友が島は紀淡海峡の和歌山県側にあります。その他紀の国には神功皇后の三韓征伐の帰途での伝承が多くあるそうです。
下図は明治時代初頭(1880)に描かれた神功皇后の三韓征伐の図ですが、気になるのは背景の立ち岩の絵です。どう見ても沼島の上立神岩の写真にそっくりです。
勿論、戦前の国家神道の世界観とは無縁な小生ですから、イデオロギー無しの絵として見ています。
その上で、絵の作者のイメージの裏側に何があったのか興味が湧きます。
Google mapを見て言えることは、淡路島が明石海峡、鳴戸海峡、紀淡海峡の3つの狭い海峡を挟んで瀬戸内海と大和・河内の地勢を大きく遮断する形にあることです。
今までは瀬戸内海の動線ばかりが議論されてきましたが、日向や熊野、伊勢、尾張を繋ぐ太平洋ベルトを、神話を結ぶ聖なるラインとして考察の対象に取り上げたい思っています。
少々突飛ですが、魏志倭人伝の使者ですら、このラインを迂回して辿った可能性も考えられます。
追記:
根っからのIT屋ですので、古代史などに顔を突っ込むのはおこがましい限りなのがよくわかりました。
とにかく、Webを覗くと、もの凄い猛者の方が山のようにおられるのがよく解りました。
マイペースで、少しづつ思考回路を深めていきたいと考えています。
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