Loading
ホメオトシス
ラ・マンチャ通信
お問い合わせ
 
 
  自負/自戒/虚栄/異端/悔恨/...../そして和解?
中島丈夫のホメオトシス
ホメオトシスは勝手な造語です。寂しい話しですが、誰にも褒めてもらえないので(...)、今も昔も自分で自分を褒めることしかできないのです。その心模様が落とし穴になりがちです。”褒め落とし”の自己責任版です。解かってはいるのですが、心が定期的に暴れるのです。いっそ心の端々まで透明で他人に見えることが出来れば楽なのですが。個とはどういうせめぎ合いの末に出来上がった何のためのバリアーなのでしょうか。
いずれにしてもこのサイト全体が、モノローグの置き場であり、荒魂に対する鎮魂歌なのです。



花咲けるSE道 -1

- 憧れるのは、耽美主義者の英雄譚

2011年11月07日 中島丈夫 


 スティーブ・ジョブズの生前のスピーチに刺激を受け、小生も自由奔放に昔話を書いてみたくなりました。
ホメオトシス流の自慢話が飛び交いますが、ここでの主張は、SEの本文は技術者としての”作品”を残すことだ、との小生の永年の想いの発言です。

SEはものごとの形式化が仕事.それではSEの形式主義はどうすれば回避出来るのか

  ”スティーブ・ジョブズの成功譚から焙り出される日本と日本ITの課題”のブログで、彼の芸術的な人生の事績を引き合いに出しながら、日本と日本ITの課題が形式主義の克服にあることを主張しました。
ブログを読まれたIT界の論客の方から、それでもなお形式化の重要さと、それ故に、形式主義に陥らないことの困難さのご指摘をいただきました。
ここでは、小生なりの答え(?)として、一気に甘味な耽美主義にジャンプします。

 哲学への憧憬のスレッドで繰り広げる中島流の屁理屈は、殆どの読者の方々には迷惑至極で、拾い読みすらしていただけません。
スレッドをクリックすらしてくれない....
ということで、ここ、ホメオトシスのスレッドで、もっと気楽に言いたい放題をさせていただくことにしました。
それが、唐突ですが、理屈をかなぐり捨てた(?)、耽美主義の主張です。

ある意味、形式主義の対極にあるのが、理屈を嫌い、結果を謳う、耽美主義だと考えて(?)います。
耽美主義はカウンター・カルチャーなものでもあるわけで、スティーブ・ジョブズの成功譚に見る、美への憧れであり、美を通して発現する知の可能性、イノベーションへの期待でもあるわけです。
規模の利益を作り出す形式化の方法とは別の共感によるスケールの創出です。
耽美主義は知の堕落というよりも、”感性の復興という意味では、むしろ、ルネサンスとも通底している”。
小生がこのラマンチャ通信で何回も主張してきた、ITのルネサンスですね。

 プロメテウスとエピメテウスの神話に見た通り、人間は”先に知ることは出来ない”生き物です。
極論すれば結果論でしか真実は理解できない。
そして、それを経験の知の様式に取り込むとき、形式化が必要であり、形式主義が芽生えます。
それを避けるためには、もっと端的に結果を、作品を論じ合うべきなのだ、と考えています。
例えばアーキテクトの先輩である建築家はどうしているか?
道具の理屈を論じるのに血眼になっているか? 
否ですね。
美とアイディア較べのコンペで勝ち抜いて、建築の新しい様式を、作品として世界に創出しています。
一方で、単なる自慢話と、作品の誇りとは違う。 結果が違うからです。
ビジネスの成功を伴わない”技術の作品”は無いに等しい。
作品を論じることは成果主義とも違います。
成果主義はたちまちにして、形式主義の餌食になってしまいます。

日本の永い閉塞感を打ち破り、悲観主義を吹き飛ばす方法としての、耽美主義万歳。
それは、経済の放漫な浪費に非ず。
形式主義のタガを外れた、知の放漫浪費がイノベーションを生むのです。


花咲ける騎士道.Fanfan la Tulipe

 ここでのタイトル、”花咲けるSE道”は、往年の名優、ジェラール・フィリップが世界のスーパースターに駆け上がった作品、1952年カンヌ国際映画祭敢闘賞作品の、 ”花咲ける騎士道”をもじったものです。
この作品はフランス時代活劇で、共演者の、あのジーナ・ロロブリジーダも、”美しい谷間”とともに大スターの座を確かにした作品です。 彼女はイタリアの女優ですから仏伊合作です。
 小生は1944年生まれですから、この作品がデビューした時には小学生低学年の洟垂れ小僧だった筈ですが、何故かこの”美しい谷間”のシーンが目に焼き付いています。
今でこそ美しい胸の谷間は世に氾濫していますが、今から60年前のことですから結構な騒ぎだったのです。
実は小生の母親が大の洋画ファンで、お陰様で小生もこの有名なスナップを垣間見ることが出来ました。
前にもブログで書きましたが、中高校生のころに、小生は大屋根を徘徊するのが趣味でしたが、このシーンが刷り込まれていたのかもしれません。(屋根から落下して変人になってしまったたことも書きました。)
以前のブログでも触れましたが、ラ・マンチャの男やエルシドの映画の主人公の相方がソフィア・ローレンですから、中島の女性の好みも知れようものです。
(ところが、どっこい、細身のオードリー・ヘップバーンの大ファンでもあります。)

 母親はイケメン俳優がお好みで、エロール・フリンの海賊ものにゾッコンでした。
このジェラール・フィリップも好みだったのでしょう。
母親は、結末が暗いフランス映画は大嫌いでしたが、この作品だけは底抜けの明るさでしたので好きなようでした。今改めて鑑賞すると、バカバカしい程荒唐無稽な筋立てですが、フランス風のシャレッケたっぷりで、好いですね。
それにしても、 このファンファン(ジェラール・フィリップ)の生き様は自由奔放で、騎士道などという邦題をつけた当時の映画界の気分も、好いですね。SE道もこうでありたい。楽しく自由に飛び回るチューリップ。
(2003年にリメーク版が製作されたようですが、こちらの方は酷い出来のようです。)
重い鎧に身を包んだ十字軍の騎士達よりも、布着一枚で身を守り、自由に空を舞うファンファン流こそが、
大空のもと、野原一杯に咲き誇るお花畑を創り出し、世界の景色を一変させることが出来るのです。
耽美主義者の英雄譚ですね。

 余談ですが、淡路島の田舎でも当時は3つも映画館があって、オリオン座というのが洋画専門でした。
小生は洋画が大好きで、勿論、全てが母親にくっついてのオリオン座通いでしたが、ある日一回だけ、独りで正月映画の”シェーン”を見に入ったことを思い出します。
黒山の人だかりで、小さい小生には結局全く100%な~んにも画面が見えませんでした。
後知恵なのかもしれませんが、画面が見えない最後尾で、”シェーン・カムバック”の叫び声だけを聞いて、
”これでよし”、っと、映画館を後にしたのをボンヤリと覚えています。

 この主人公の名前、ファンファン、で想起するのが  最近まで嵌まっていた韓国歴史TV映画によく登場する、新羅の花郎(ファンラン)と呼ばれる戦士集団、騎士集団です。
そしてこれも妙な縁ですが、IBM 100年のブローガー・ミーティングを仕切っておられた、ファンズ・ファンズ
のサイトでもありす。
さらなる余談ですが、若き日の岡田真澄氏はこのフィリップにあやかって、この名で呼ばれていました。

Fanfan la Tulipe、名前は明らかに耽美主義者のタグですね。

何故か憧れるのは、耽美主義者の英雄譚

 主人公のファンファンは気まぐれで自由奔放です。
小生は、何故か耽美主義者の英雄譚に魅かれるのですが、この主人公もピッタリそんなスタイルなのです。
形式が大嫌いで思いつきの行き当たりばったり、エエカゲンさが売り物なのに、大仕事に嵌まってしまう。
 昔、”コンバット”という戦記シリーズものの人気TV番組がありましたが、その中でたった一つ、小生の記憶に残っている大好きなエピソードがあります。
粋なフランス系アメリカ兵士が英雄的行為で同僚を救った末に被弾し、息を引き取る直前に嘆く言葉です。
こんな筈ではなかったのにな、僕は耽美主義者なんだよな..

 小生も自由気ままに山河や海に遊び、学生結婚のまま大学院生活をしていたプータロウだったのですが、何故か40年間も計算機と付き合い、システム・エンジニアという不可解な仕事に嵌まってしまいました。
それでいて、未だに”リファレンス・アーキテクチャという言葉が大嫌いだ”、などと体制に反抗してもいます。
スティーブ・ジョブズの成功譚から焙り出される日本と日本ITの課題”のブログでひつこく書いたのも、
このブログを書いているのも、想いは一つなんですね。
SEの本文は技術者としての作品を残すことだ、という。
それは、理不尽なマクロな世界と対峙しながらも、偶有的な自分の人生を美しく全うする道なのだ、と。
それが小生にとっては、英雄譚なのです。

 小生はそんな想いを、日本IBMを去る直前に、DE紹介シリーズの社内Webサイトに書きました。
(DE: IBM Distinguished Engineer、技術理事)
ところが、伝え聞くところによると、小生のブログを見た某技術担当役員が、
大変だ、中島さんの頭がおかしくなった、何もかも自分がやったと言い出した”、と騒いでいたらしい。
中島の頭がおかしいのは、その時に始まったわけではなく、ずっと以前からのことですから、何を今さら。
それにしても、彼には、結局、小生の提言など何~んにも通じていないのがよく解りました。

 頭が変になっての大法螺というよりは、SEとしての自分の作品への拘りなのですね。
それが自慢話と紙一重なのは、よく理解できます。しかし法螺話ではありません。
例えば右にある表彰状は、IOCA、今でいうIBM Corpolate Awardです。
1973年当時のIBM会長、フランク・ケアリーのサインが読めます。
副賞にレオナルド・ダビンチ図案のネクタイピンとカフスボタンを戴きましたが、それが右の図案です。
小生は1969年入社ですから、入社3年で、一介の営業所のSEがこの賞を得たわけです。
そのエビデンスの背景には、SEとしての作品があった。それを誇りたいわけですね。
このシステムを一人で設計し、大プロジェクトで移行し、完璧に稼働させることができましたが、
この賞はセリングに対するSE個人へのAwardです。

この賞状には深い思いがこもっています。
大激戦の商談で、小生は一人で電話帳3冊分のプロポーザルを書き上げるのに、3か月余りをオフィスに泊まり込んだままでした。書き上げるまで離れられなかった。誰にも受け渡せなかった。
そして、母親の臨終に間に合いませんでした。
耽美主義者を自認し、子供のころに母親の騎士となることを宣言していた筈の小生は、壊れてしまいました。

 1972年にS/370が発表され、S/360 M85というスーパー・マシンの廉価版として、S/370 M165が市場に顕われました。このマシン(後にS/370 M168)は当時の日本市場で数台が納入されました。
小生が属する神戸営業所は、このマシンで川崎重工さま(KHI) の全社統合システムを提案しました。
IBM、CDC、UNUVAC、富士通の4社の激闘でしたが、当時のKHIは主力は造船でしたが原子力もやっていたりして、技術者はみんなこのS/370 M165、スパコンが欲しかった。
全社に散らばる23台のシステムを一極に統合すれば、買えたわけです。
しかしそんな統合を実現していたシステムなど、世界中のどこにもありませんでした。
技術計算は問題ないとしても、全国に散らばった基幹系のシステム群を、各事業所から遥かに離れたリモートに一極集中するシステムが運用できるなど、当時誰も考えてもいませんでした。
当時のベンチマーク・テストでは、テープのマウント時間を含めて計測したりしていましたから、何が問題だったのかは容易に想像がつくと思います。
ベンチマークテストでは、小生も含めた新人のSEがテープ装置の前で磁気テープを持って待機し、マウント・メッセージが出るとクルクルと磁気テープの巻き取りセットを猛烈な勢いでやっていました。
なんとオペレータのベンチマークになってしまっていたのです。

 さらには信頼性が大きな課題でした。
当時も今も、常識で考えればホストを複数台持つのが当たり前なのですが、M165を2台買うお金など、某銀行は別にして、どの企業にもなかったのです。当時のIBMでは値引きなど全く考えられなかった。
ではどうするのか。
スパコンM165をダウングレードしてM155の2台で組めば、統合での技術者の夢は掻き消えてしまいます。
そこで小生は、廉価なプロコンのSystem/7を、M165のフロントに配して無停止のネットワークとして独立させ、M165は一台で済ますことにしました。
基幹系はバッチが主体ですが、事業所の人たちは5時には仕事を終えたい。その前後でホストがダウンしたらどうするのか。また、お昼休みもちゃんと取りたい。
複数のSystem/7をS/370 M165チャネル直結とし、通常は、リモートからの仕事やデータの送受信をSystem/7は通信制御装置ハードウェアのエミュレーションで透過的に動き、M165がダウンすると自動的にSystem/7の磁気ディスクにスプールする構造にしました。
せいぜいが9.6kbps程度の当時の通信容量を考えると、各事業所のオペレーターからはホストのダウンは全く見えなくなりました。

あれやこれや、標準のIBM製品だけでは組みようのない構成を、自分でコーディングもやりながら、KHIの技術者の方々の優れた技術力で、驚くような運用系システムも含めて、創り上げてしまいました。

 小生がリファレンス・アーキテクチャの言葉が嫌いな理由は明白です。
小生は、多くの大型システム商談で設計を受け持っていましたが、殆ど技術力でしか商談を差別化出来ないIBMにとって、ありきたりのシステムを援用するだけで、勝てるわけがありませんでした。
テクニカル・スキャンなどという言葉を安易に使うITアーキテクトに出会うと、今でも心の何処かが折れてしまいます。

 余談ですが、この巨大システムは無事オンタイムで稼働し、お客様の川口部長からは、プロポーザルのコミット、特に性能見積もりなどが全て満たされた、と満点をいただきました。
そして、当時の神戸営業所長だった佐藤さんには、こんなに全てが順調に終わったプロジェクトはない、と誉め言葉をいただきました。
しかし、このプロジェクトの完遂で、誰一人として賞を手にしたIBMerはいませんでした。
CEさん(ハードウェア技術者)、PSCEさん(ソフトウェア技術者)、SEを含めて、誰もです。
実は、このシステムのカットオーバー時、1975年にはオイルショックの大旋風が吹き荒れ、造船不況がお客様を直撃していたのです。
IBMは一切の値引きはできませんし、システムのカットオーバーも一日の延期もできません。
ところが、マシンルームに大きな鼠が出現して、ケーブルをかじってしまったために、システムのカットオーバーが大幅に遅れる、という事件が起こりました。
それやこれやで、IBMチームでご本社から誉められたメンバーは皆無だったのですが、全員、大きな達成感に包まれていました。

さらに大切な思い出は、河村さんと出会え、共にこの大仕事をこなすことが出来たことです。
2009年7月29日 のホメオトシスのブログ、
河村さんとの想い出...小椋佳の歌を聴きながら.....”に、その思いを書きました。


添付: IBM退職直前に書いた、日本IBMのDEコラムへの小生の投稿.12/15/2008出稿

(DE: IBM Distinguished Engineer、技術理事)

専門及び活動分野

ジャンルはフィールド出身の古典的SE
新時代を切り開く技術を発掘・アレンジして、リアル・ワールドに新世代システムを創出する。
自分の設計が具現化するためには、アイディアが採用されて、競争に勝ち抜く事が大前提。
IBM Fellowなどとのアイディアの共有に始まり、流れを切り開くための夢を共有する仲間を作り、そしてお客様に受け入れて頂く。
コンペの撃破や市場での浸透は豪腕の営業さん中心のリーダー・シップにも大きく依存。
小生の主な作品は
汎用機全盛を加速させた大規模企業統合システムの、世界最初の設計・構築、
その技術のコピーなどによる不正転用を阻むため、アセット不正利用防御技術の創出・開発・適用、
当時徹底的に遅れていたIBMスパコン開発に活を入れた、NEC協業の日本IBM開発スパコン概要設計(初期のみ参画)、
IT部門の汗と涙を踏みにじろうとしたダウンサイジングの大波を突破した、CMOSSysPlexの日本IBM側での発見とお客様・市場価値化、
マイクロソフトの企業システム制覇をブロックしたJ2EEの、その基礎の一つとなった3-tier構造の企業システム・モデルのアイディア創案とグローバルへのチャレンジ、
などなど。
zLinuxSOAの日本でのトリガーも引きました。
そうそう、大嫌いなItaniumアーキテクチャのIBM製品での幕引きもグローバルで画策し、成功しました。
その他、OEM事業部絡みでの技術サポーや、外部セミナーやお客様コールでの技術動向講演など。
また北城さんや大歳さんへの技術動向ご進講も仕事です。
TEC-Jのコ・ファンダーとして、APTO技術者とは別にITS, ITA側を組織化したり、JTO (Japan Technology Outlook)を創案してそのアドバイザーもしています。現在はJTOの一つのタスクJEANS (JTO Enterprise Appliance for New IT Service)のコ・リーダーとして、クラウド対応の次世代エンタープライズ・データセンターのアーキテクチャ作りに燃えています。

ここ一年の活動サマリー

今年はJEANSに明け暮れた感じですね。
IBM科学アカデミーのITアプライアンス・コンファレンスに乗り込んで、味方を広げるために論文発表したりしましたが、主催のIBM Fellowに無視されたりで苦労が多かったのです。
年の終わりになって、やっと、JEANSリーダーの菅原DEと一緒に行ってきた地道な活動が奏功し、IBM Fellow中心のBCAB (Blue Cloud Architecture Board) & NEDC (New Enterprise Data Center) ABのチーム・メンバーとしてJEANSが正式に認知され、協業することになりました。
エンタープライズ・クラウドのミッション・クリティカル・モデルとして大変期待されています。やったぞ
 他には、お客様コールや各種セミナーでの講演、1995年以来14年間続けている全国ユーザー研の論文審査委員やそれと同じくらい永いJGSアドバイザリー・ボードなど。
ICPアーキテクチャ・コースの講師も1993年以来16年間続けています。当初からコースを全部一人で喋っていましたが、少し前から半日に縮められてしまいました。不満です。
2つの大学院で、夫々2単位のインフラ・アーキテクチャ・コースを担当して喋り足りない憂さを晴らしています。未来の技術リーダーに技術ビジョンの大切さを訴えています。

後輩へのメッセージ

何をお伝えしましょうか。
まず、キャリアの話題。
技術者として、とくにシステム系技術者としてのキャリア選択の一つとして、技術者として歩み続けるのか、兼任も含めてマネージャになるのか、の大きな選択肢があります。
どちらを選択しても後悔しない人生にチャレンジすべきですが、どうも途中でマネージメントに振った人達のほうに苦労が多いように見受けられます。
マネージメントになると、先ず技術力は急降下しますよね。戻れない。
かくいう小生もシステム系のマネージメントの世界に迷いこんでいました。
技術力の低下は自分でもはっきりと認識できました。
どうして小生が今DEメンバーに入っているのかと言えば、ラインを明示的にクビになったからです。
それも2回。上役との軋轢です。早く言えば(信条の)喧嘩ですね。
挫折した悔しさと怒りは未だに残っていますが、結果として、技術者として大変幸せだったと考えています。
幸運にも放し飼いの禄持ちにして頂き、価値観にぶれのない人生をまっとうできたと思います。
本当に感謝しています。
DEの良さは、少々変人・奇人でも、技術を通じたビジネス貢献を積み重ねればエクゼカティブになれるという事です。
ビジョン作りも含めて技術が本当に好きであれば、お勧めです。
リーダーシップ発揮のチャンスは格段に増えます。
特に初見の海外IBM勢へのリーダーシップ発揮では(DEの位で)大変有利になります。
 
 もう一つの選択肢はグローバル対応の話題ですね。
IBM技術キーマンが日本IBMをスキップして中国やインドに行き帰りするのを見るにつけ、口惜しさが募ります。日本のITの実力も評価も日を追うごとに凋落しているように見えます。
IBM全体でのグローバル展開は明らかに正しい戦略ですが、これに形式的に同調する活動には小生は納得できていません。
日本IBMに腰掛けたままの(海外旅行満喫の)海外ギブバック活動の自慢話に触れるたびに、既に無い筈の頭髪が逆立つのを強く感じます。“怒髪天に昇る”です。
海外へのリーダーシップ発揮は技術者として大変重要ですが、それに先立って、日本のお客様や市場への徹底的な貢献のための技術とビジネス・リーダーシップの発揮がというものです。
天を向いて威張っていると、日本ITともども、後ろ向きに大きくひっくり返ってしまいます。
技術者は常に前につんのめって、おでこと鼻筋を擦りむく勢いで、新しい技術とその成果にチャレンジして欲しいのです。 先進国日本のSEの驕りなんて、何時までもつことやら。
皆さんには技術のディスカッションを徹底的にやって欲しいです。技術に正直であって欲しいです。
そして、IBMの業界Aチームとしての誇りと実績を取り戻して欲しいです。

我われ年寄り技術仲間は白髪組なる飲み会を持っています。いつでも議論を挑んできてください。待っています。



 



       ”花咲ける騎士道”の一シーン

テロップは映画のオリジナル.小生が書き込んだのではありません





 
       ”花咲ける騎士道”の一シーン

 ファンファンは 村の小娘に手を出して結婚させられる羽目になり、
その苦境を脱するためにフランス国王軍に応募します。
しかし一旦は入隊したものの、
形式ばった訓練が早速嫌になって軍服を脱ぎ捨ててしまい、
大騒ぎを起こした挙句に国王から死刑を宣告されます。
しかし結局、単身(3人)でプロシア軍の本部を乗っ取る大手柄を立て
フランス庶民の語り草に残る(?)英雄になります。

 
  
  
  
  

 
 
    
     IBM Outstanding Contribution Award

 





    
         "But, I still loved what I did"