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2009, 2010 ARCHIVE


 自負/自戒/虚栄/異端/悔恨/...../そして和解?
中島丈夫のホメオトシス
ホメオトシスは勝手な造語です。寂しい話しですが、誰にも褒めてもらえないので(...)、今も昔も自分で自分を褒めることしかできないのです。その心模様が落とし穴になりがちです。”褒め落とし”の自己責任版です。解かってはいるのですが、心が定期的に暴れるのです。いっそ心の端々まで透明で他人に見えることが出来れば楽なのですが。個とはどういうせめぎ合いの末に出来上がった何のためのバリアーなのでしょうか。
いずれにしてもこのサイト全体が、モノローグの置き場であり、荒魂に対する鎮魂歌なのです。

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大空を自由に飛び回ったことがありますか?

2011年01月01日 記述


2011年度からブログの形式をTOPページ経由に変更しました。




21世紀の日本国家アイデンティティ. Trustの旗は至誠と誇りで立てる

- 怒りを超え、心を癒して日本人の誇りを再生しよう -1

2011年01月01日 記述


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温故知新. 弁護士を活躍させる会社はろくなことになりません

IBMがITの覇者から滑り落ちた本当の理由? Oracleはどうなるのか

2010年11月26日 記述


 OracleがGoogleを訴えた件で、IT業界のさる著名なAさんから、
”オラクルって、どこかの会社のあの当時の姿に似てきましたね....
弁護士を活躍させる会社はろくなことになりません。”
というメッセージをいただきました。

 どこかの会社、というのはIBMのことで、あの当時、というのは、1980年代のことですよね。
ということで、少し温故知新を兼ねて、この件を論考します。

時代の変曲点. ソフトウェア勃興、オープンコミュニティ勃興、クラウドサービス勃興

 亡くなられた元富士通副会長の鳴戸道郎さんが、伊集院丈というペンネームで、執筆された大著、
「雲を掴め」、「雲の果てに」(秘録富士通・IBM訴訟)で描かれているのが、Aさんの仰る時代背景です。
この件をご存知の方はもう少ないでしょうし、関心も殆ど薄れていることでしょう。
この係争は、IT業界で、ソフトウェア・ビジネスが満を持して勃興する時点での出来事でした

一方で、コモンズ・メディアの星暁雄さんが、ITproで、今回の件は ”SCO Group のLinux訴訟” に似ていると述べられています。

 今回のOracleのGoogle訴訟の件は、技術的な問題点などでは、IBMのケースではなく、SCOの件に似ていると、小生も思います。
そして、IT企業が特許や著作権という、いわゆる IP(Intellectual Property)で、オープンソースを攻撃する図式である今回のOracleのケースは、技術的な面で、SCOのケースによく似ています。
オープンソースというのは、本質的に、この点が脆弱なんですね。ま、アンチテーゼの趣旨もあります。
IBMの件は、伊集院さんの小説が全てとは思いませんが、遥かに複雑・広範囲な背景がありました。

SCOのLinux絡みでの一連の訴訟時期は、オープンソース勃興の歴史的な変曲点にありました
で、今回はクラウドサービス勃興期という、変曲点にあります

 小生は、クラウド時代になると、こんな事がこれから増えるだろうという視座で
世界ソフトウェア業界は大動乱期へ.日本ITに千載一遇のチャンス到来か?”を書きました。
(今、原稿を書いている途中で、Nobellが買収されるニュースが入ってきました。
当該のブログの頭で書いていましたように、前から禿鷹が集っていましたから、いずれはとは考えていましたが、マイクロソフト系が最終的に買収するとは。。。。波乱含みですね。。
SCOの訴訟の件が当初の予想より比較的コブリて済んだのは、NovellがUnixのIPを主張したからです。.続報によりますと、幸いなことに Uniix の著作権はNovell が保持しているようです)

 一方で訴訟の動機という点では、当時のIBMの件に似ていると思います。
SCOは、Project Montereyが潰れて困り、成長し始めたLinux絡みで儲けようとしたのだと考えますが、Oracle が星暁雄さんの言うように、訴訟を、金目当てという意図だけで仕掛けているとは考えにくい。
勿論、貪欲なエリソンの視界には、成長するモバイル系でのIP収入があるのは当然でしょうし、行きがけの駄賃でふんだくれるものは何でも頂こう、と考えているとは思います。
しかし、いくら商売上手なエリソンでも、彼の今回の本心は、お金が主目的ではないような気がします。
ビジネスで成功し、セクハラでHPを追い出されたハードも拾い、さらなる成功者として何を狙うのか。
富士通との係争当時のIBMはIT業界の覇者の地位を守るために紛争を起こし、今回のOracleはIT業界の新しい覇者を狙って紛争を起こした、というところでしょうか。

 裁判の論点はともかく、結果はどうなったかというと、SCOは潰れ、IBMもIT業界の覇者から滑った
Aさんの仰りたいことも、ここにあるのでしょう。
知財に血走り、弁護士を前面に押し出す戦略は、いずれ水泡に帰する。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。
Oracleは当時のIBMの轍を踏むのでしょうか。
エリソンのIT業界の覇王たらんとする野望は成功するのでしょうか。

 小生は、エリソンの野望は失敗するのではないかと思います。覇者にはなれないと思います。
何故なら、今回のOracleのGoogle訴訟の件は、単に2社の問題だけではなく、またAndoroidに絡まる業界だけの話で収まりません。エリソン自身もそう考えていて、見せしめの戦術なのでしょうが、
きっと、裸の王様に成ってしまうのでは、と危惧しています。

 ITの風景のブログで小生が、
クラウド時代のJavaの行方-4.Oracle, IBMの動きはJava 終焉への予兆か”、で論じたように、
エリソンが戦略のコアに置こうとしているJavaに暗雲が垂れ込め始めていると考えています。
エリソン自身がこの暗雲を発生させ、その動きを加速させてもいるのです。
そして肝心なのは、IT企業とオープンソース・コミュニティとの時代的な絡まりあいが勝負となります
 で、IPを振りかざして、オープンコミュニティと対決する戦略は、小生は成功しないと考えます。
何回も述べてきましたように、SUNは訴訟はしませんでしたが、争う戦略で失墜してしまいました。
これがIBMが過去に学び、その後、オープンコミュニティ重視の戦略で成功してきた原点でした。
そして、仮にOracleがJavaを牛耳ることが出来たとしても、Webを支配することは出来ないでしょう。
小生は、既に顕在化していた脱Javaの動きが、これを契機に大きく動き出すだろうと考えています。

 技術者は、技術の会社は王道を歩むべし。技術者の信望を失えば、会社は傾くのです。
ビジネスの成功のためには、なんでもありだけれども、これだけは禁手です。覇者の条件です。

 勿論、オープンソース・コミュニティの技術者の給料は、彼らが帰属するIT企業から出ています。
Linuxのコミュニティの1000人の主要コントリビュータは100会社に勤務し、70-95% は彼らのコントリビューションに対価が支払われている、ということです。
しかし重要なのは、2005年以降, コントリビュータの数は3倍になり、コントリビュータの仕事の70%は主要企業向けだという点にあります。
オープンソース・コミュニティはIT企業の開発戦略の核になってしまっているし、それがIT業界全体の構造、ヘゲモニーを変えていっているという事実です。Apache しかりです。
 度重なるM&Aで、多くの主要技術と技術者を取り込んだOracleといえども、大きな流れは変えられないと考えます。ソフトウェア技術の真実、パンドラの箱は開けられてしまったのです。
それが、クラウドという場を得て飛躍するのを、エリソンといえども止められるとは考えにくい。
世に、成功を夢見る若き技術者の種は尽きまじ、です。
一方、ビジネスの切り口でエリソンの手腕を高く評価されでおられる方は、違う意見かもしれません。

さて、温故知新ということで、当時の状況を振り返りながら現在のITの風景を論考してみましょう。

顧客とSW 業界を激怒させ、Unix に走らせた、IBMの OCO (Object Code Only) 施策

 IBMが富士通・日立と係争を起こした1982年ごろ、IBMは一方で重大なソフトウェア戦略の変更を始めていました。OCO (Object Code Only) 施策です。
OCO施策の方向性の発表は、確かIBM DPD (Data Processing Division)からGeorge Conrades名で出されました。George Conradesが最後のDPD Presidentだったので、1982年のことだと思います。

 OCOというのは、簡単に言えばソフトウェアの内部情報を開示しないということです。
誰に開示しないかと言えば、IBMの外、すなわち顧客、ITメーカー、ベンダーは勿論ですが、IBM社内のSEをはじめ、当該製品の開発部門以外にも見せないという施策です。
ソースコードは勿論ですが、API 的な意味も持つデータエリアも開示しないということになりました。
当時、大手顧客やIBM SEなどがIBMソフトウェア挙動の理解のベースにしていたロジック・マニュアルも非開示となりました。
この辺の施策のベースは、当時IBM社内で大きな力を持ち始めていた弁護士グループと、その忠告に賛同する一部の経営者が狂信的に進めようとしていたのだと思います。
直接のきっかけは富士通・日立との係争でしょう。
IBMが商務省に泣きついたとき、商務省は、
「銀座のど真ん中にソースコードをばら撒いておいたのだから、しょうがないだろう」、と言ったとか。。。

これがIBMが覇者から滑り落ちる、一番大きな理由の一つになったのだと、小生は考えています。

 このソースコードをもう見せないという施策に、大手顧客やADSPO(Association of Data Processing Service Organization)が激怒したのです。
ADSPOは米国のソフトウエア・ベンダーやサービス企業,コンピュータ・メーカーの連合体でした。
結果として、彼らは当時オープンなUnixを選ぶことになります。ダウンサイジング時代の到来です

Session S987 - OCO: Survey of IBM Object Code Only Implementation

SHARE 71, August 15-19, 1988
(My opinion: I don't have to conduct surveys or respond to surveys or justify ANYTHING to IBM.
I am the customer and IBM is the vendor; I pay great gobs of money to IBM, and IBM damn well
ought to give me what I want, because I want it and for no other reason. Period.)

 温故知新で言及しますと、このIBMの失敗と同じ道を、現在の Oracle がなぞっているように思えてなりません。
オープンソースのコミュニティを敵に回すことの恐ろしさを、エリソンは熟知している筈なのですが。
今回は違う何かがあるのでしょうか。
 
 実は、IT業界では当時 IBMだけが、ソース・コードを開示していました。富士通も、日立も、Univacも、IBM以外誰一人として自社のOSを裸で見せていたメーカーはありませんでした。
よく当時の IBMをプロプライエタリーの権化のように論評する向きがありますが、そんなことは全く無かったのです。逆に当時のUnivacの顧客などは完全にロックインされた状態でした。

 IBMはS/360の開発・市場投入で、アーキテクチャの考え方を前面に打ち出し、それまでバラバラだったコンピュータ仕様と業界構造の革命を起こしました。
S/360で業界の覇者となったわけですが、その肝は、オープンなハードウェア・アーキテクチャであり、
ソフトウェアの(そのままの再利用などは考慮されていなかった)オープンソース的戦略にありました。
仕様の公開(オープン)です。
当時のS/360はテクノロジーとしても画期的ではありましたが、それだけでは覇者にはなれなかったと思います。
オープンさで一気に技術の流動性を呼び込み、メーンフレームという業界標準を確立しました。
一社の囲い込みで覇者にはなれない。お客様技術者やSEを含む広範な技術力を取り込んだのです。
 IBMには、正規の開発部門以外にもいろんなソフトウェア・コミュニティが存在し、これがSHAREなどのお客様団体の技術者と共有されることにより、IBMのイノベーションの大きな源泉になっていました。
NASA担当のSEが開発したHASPや、現在の仮想化の起源にあたるVM/370などは、多くのファンを内外に獲得し、ちょうど現在のオープンソースの開発環境に近い活力を醸し出していました。

 しかし、覇者になったIBMは、このオープンさ故に逆に大変苦しんでもいました。
あろうことかS/360の主アーキテクトであったIBM Fellow, Dr. Gene Amdahl がS/370互換機を開発、強烈な競合メーカーとして挑んできたのです。
いわく、HW PCM (Plug-Compatible Manufacturer)の登場ですね。
PCM 業界が出来上がる程になった。
丁度、IBM互換パソコンと同じような現象です。
 独禁法の強い制約があって、IBM OSはパブリック・ドメインと呼ばれ、PCMメーカーは自分のOSのように自由に利活用できたわけです。メンテはIBMが全てやってくれた。拒めば独禁法違反です。
顧客は、安心して価格性能比の対比でメーカーを選択できたので、最盛期にはメーンフレーム市場の24% をアムダール社(Gene Amdahl 創立、富士通出資、後に子会社化)が奪うことになりました。
余談ですが、小生はさる大手鉄鋼メーカーの商戦の前線で、このAmdahl 470 V6(富士通M-190) との激しいベンチマーク・テストの経験があります。技術的に面白いお話がありますが、その件はまた別途で。
 さて、アムダール社がIT業界に持ち込んだのは HW PCMだったのですが、それをOS互換にまで拡張したのが、当時の通産省主導のIBM互換機路線、M シリーズでした。
HW PCM だけだと純粋にハードウェアだけのhead to head の競争に明け暮れることになります。
しかしOS互換まで拡張出来れば、色んな付加価値導入が可能になります。
ところが結果的には、これ程大きなリスクの選択は無かったのです。

 IBMはソフトウェア事業の勃興に合わせて、1972年のウエイバー・オブ・チャージ以来、1977年から、OSであるMVSにおいても、Licensed PP (Program Products)をスタートさせていました。著作権保護の網掛けを施した、有料ソフトウェア路線の拡張です。
この時点のIBM OSは、もうパブリックドメインでは無くなっていたのです。

 温故知新で言及すれば、クラウド時代で想定される、IPとオープンソースが入り乱れる乱世のソフトウェア業界で成功するためには、前に論考しました往年の富士通JEFのような構造を持つ、ユーザー主導アーキテクチャの方法が、最も安全であり、最も実りも大きい、と考えています。
小生のアイディアは可能な限りスタックに組み込まずに、仮想アプライアンスで横にリンクします。
大手のITメーカーは、M&Aなどを通してとにかくスタックの自社化に奔走していますが、これほど未来を固定化される罠はありません。日本ITはこの動きに上手に対応する方法を準備する必要があります。
これからは間違いなく乱世です。チャンスが転がっている筈です


IBM HQに挑戦した反OCO. 一方でIBM技術者を疲弊困憊させた弁護士主導の施策

 コテコテの技術屋堅気の小生は、TSELでも弁護士的な雰囲気がいや増すのを嫌って、1985年の暮れに日本IBMのSE HQに帰ってきました。
ところがここで、OCOの意味を嫌というほど知らされることになりました。
その一つは、もう、SEにもソースコードもロジック・マニュアルも見せないということのインパクトです。
SEのサポート技術力は、ソースコードやロジック・マニュアルを見れなくなって急激に落ちていきました。
勿論、ソースコードやロジック・マニュアルに噛り付く強者は、SEの中でもそんなにいたわけではありませんが、内部構造をブラックボックスのまま、知りたいという欲求を捨て置いて平気になる風土が広まると、急激にIT脳は低下し、顧客サポートの当事者能力を喪失していきました。
 そしてもう一つの大きな弊害は、もっと馬鹿げたものでした。
開発部門は勿論、サポートSE部門に対しても、当該製品のドキュメントを記述するに際して、著作権や内部情報絡みの存在の部分を明確にマークアップしろ、という通達です。
 技術記述の一連の文章の流れの中で、ここからここまでは、著作権の対象である、という注釈を付加させられたのです。これはIBM・富士通紛争のAAA裁定の結果、IBM側技術者に課せられたトンデモナイ重荷でした。全くバカげたことですが、実質的に、技術者はドキュメントを書けなくなってしまいました。
そんなことが出来るわけがないだろうとクレームすると、弁護士の命令だから、やれ、ということでした。
さすがにこの制度は、その後しばらしくて廃止されました。
このころ、同じようなOCO施策のアプローチが、顧客やADASPOに行われていたのでしょう。
前述のお客様の激怒した演説もこのころでした。(SHARE 71, August 15-19, 1988),

 前述した「雲の果てに」の最後の部分で、鳴戸道郎さんは奇妙な2人の人物を登場させています
心の残像が推し量られます。
その一人は、スーザン・フィオリナという名で登場し、次のようなセリフを伊集院丈に告げます。
「ガースナー改革でIBMを出た人たちはみな幸せよ。お金持ちになったわ。。。。。。。
今貴方はロンメル将軍と言われているの」
「貴方にはもう幸せは一滴も残っていないということよ」

 前後の文脈から、小生はこのフィオリナなる人物は、エレン・ハンコックのことではないかと思います。

 小生も、一方的で遠くからの関係ですが、エレン・ハンコックには苦い思い出があります。

 小生はTSELから戻ってから1988年には、SE技術のヘッドになっていましたが、ここでも上役と喧嘩して、大一回目の明示的な首になってしまい、翌年には早々とスタッフ職に戻っていました。
その1989年に、嫌な仕事を嫌な上司からやらされるのが嫌で、小生は自分勝手に、新しいタスクを始めていました。これをやっている間はさすがに上司は手も足もでませんでした。
IBM HQに向かって、SEに対するOCO施策を撤回しろ、と一人で挑戦したのです
 それは、IBM HQのDr. Peter R. Schneider, VP for Systems and Programming, に直接メッセージをぶち込むことから始まりました。
”日本のお客様のためにOCOには従えない。日本では米国と違って距離と言語ギャップがあるから、開発部門の役割をSE HQ部門が代替しているのだ”、という事実と主張は大きな説得力がありました。
数多くの事例とともに、このモノトーンを粘り強く主張し続けた結果、Pete Schniderを始め、S&D系のVPも、賛成に回ってくれ、代わりに説得に回ってくれたのです。
ところが、くだんのエレン・ハンコックに、結果的に酷い目に合わされました。
撃ち落とされたのです。
しかも、尋常じゃないやり方で。
当時、エレン・ハンコックがIP 関連の総責任者になっていました。
S&D系のVPが、エレン・ハンコックへの怒りで震えながら、小生に独白しました。
自分の生涯で、こんな屈辱を味わったことはない. こんなに口汚く罵られたことはない”と。

そういう IBM社内の深い亀裂を、当時は起こしていたわけです。
ガースナーが後にそれを修復しました。

 小生がエレン・ハンコックを知ったのは1986年のCTRE (Corporate Technical Recognition Event)でした。CTREは開発部門の夫婦同伴の大きなコンベンションでした。
初日のゼネラル・セッションで、エクゼカティブが紹介されていく中で、司会者が彼女を紹介しました。
”エレン・ハンコック and Her Husband !

小生は、円形劇場の座席の殆ど真横に座っていて、物理的に大きく見上げた記憶があります。

彼女は周囲に、”エレンと呼ぶのはおよし、アランとお呼び”、と要求していたそうです。

 以下は Wikipedia からの引用です。
エレン・ハンコックはネットワーク HW&SW 担当のSr.VPにまで上り詰めた。
そのころ(1990年頃)、ネットワークHWの売り上げはyear to yera で2桁のマイナスが続いていた。
この部門は最終的にはCiscoに売却された。
1995年9月、彼女はIBMを去って、Gil Amelioに誘われ National Semiconductor に入りました。
Gil AmelioがAppleのCEOにつくと、すぐ彼女もAppleに移りました。
彼女は直ちに当時懸案だった Apple Copland (operating system) のプロジェクトを潰しました。
その経過の中で、NeXTを引っ提げてSteve Jobs がAppleに帰ってきました。
そして、すぐに、彼女はAppleをやめました。
Steve Jobs は彼女を評して、何度も、”bozo”と呼んでいた。
(bozo: 奴; 野暮な男、無骨者; おろかな初心者)
彼女はAppleを去ってすぐに Exodus CommunicationsにCEOとして移った。
2001年インターネット・バブルが弾けると同時に、エクソダスは潰れてしまった。

 結局、OCOの例外は作れなかったけれども、小生にとっても大きな収穫が残りました
日本IBMのSE HQが単なる顧客技術サポート部門だけではなく、開発部門とアイディア策定の上流工程から緊密に連携する仕組みが、公認されたのです。
それは、前線で幾多の修羅場を潜り抜けてきたSEとしての小生の宝物だった。
Systems Laboratotry の設立だったわけです。
その後、この仕組みのおかげで、いろいろな面で結果を出すことができましたが、特に、Sysplex、Network Computing など、大きなシステム・アーキテクチャで、楽しい夢を見ることができたのです。
この時の仲間の長野DEや森田DEとは、開発部門と丁々発止とやりあった楽しい思い出が一杯です。

 さて、「雲の果てに」の最後の部分に登場するもう一人の人物をみてみましょう。
ボナパルト・チェン博士といい、既に台湾の有名なパソコン企業の社長になっていた、とあります。
この人物は元IBMでエイサーの社長になった、レオナルド・リューですね。
彼が伊集院丈にあることを告げ、伊集院丈は愕然となってしまいます。
「富士通にそんな人間はいない。いる筈がない」
いつまでもくすぶり続ける心の残像が推し量られる言葉です。
小生はこの件に関して守秘義務など申し渡されていなかった一介のSEですが、申し上げたい。
小生の観た風景にはそんな方は決していなかった。

遅まきながら、鳴戸道郎さんの、ご冥福をお祈りして申し上げます。

日本の現在の逼塞感を打ち破るために、結束してユーザー・システムの成功に邁進し、グローバル化の流れで日本が成功できることを、ドン・キホーテは夢みています。




ユーザー主導アーキテクチャの意味. 技術サイクルの迅速・柔軟な取り込み

- x86-64bit誕生の背景に探る、技術者の戦略的な政治力とは何か -3 -

2010年9月29日 記述


 さて、x86 32bit から64bit化への動きの背景を探りながら、技術者の戦略的な政治力について考えてきました。今まではメーカーの開発系技術者の観点が主だったのですが、ベンダー系、ユーザー系のSEの戦略的な政治力とはどのようなものか、を引き続き考えてみたいと思います。
その一環として、ラマンチャ通信で発信している,、クラウド時代におけるユーザー主導アーキテクチャの意味について、SEの戦略的な政治力や技術サイクルとの関係で少し論考します。

ユーザー主導アーキテクチャとは、技術サイクルの迅速・柔軟な取り込みの仕組み

 ユーザー主導アーキテクチャの主張が、ユーザー企業に、またまた第三次銀行オンラインのような、
プラットフォームに近いものを作れ、といっているのではないか、と誤解されている見方があるようです。
そうではありません。
そのようなプラットフォームは、メーカー系がデリバーしてくるプライベート・クラウドの商品側にあって、
ユーザー主導アーキテクチャとは、クラウドの特徴を積極的に利活用する仕組み・構造をいっています。
その精神は、モバイルやセンサーなどの新技術のインベンションをe2eのシステム作りに素早く取り込み、企業自身のビジネス・イノベーションを迅速に作り上げる、企業IT側データセンターでの方法確立です。

 この辺の事情を考えるうえで、もう一度下図を道具として利活用しましょう。技術サイクルの図ですね。
この図の出典は大神(2009)さんの論文です。
技術を論じるうえで解り易いと思います。(小生の論はこ難しいですが。。。)

 

 図 技術サイクル


出典:左図は大神が解説のためにTushman and Rosenkopf (1992) を整理し直したものです。
大神 (2009)、
「技術進化における社会政治的ダイナミクスと技術サイクル、製品の複雑性」、赤門マネジメント・レビュー 8巻2号 (2009年2月)
図中 A, B, C, D は中島が追記

 これまでの論考ではメーカー系技術の視点から見た技術サイクルでしたが、今度はそれを利活用するユーザー系企業から見た技術サイクルに当てはめて考えて見ます。
 まず上図左側の企業システムの安定期から出発します。
そこに、何らかの技術のインベンションがメーカー系技術者から発現します。図のAです。
この技術を、将来の企業系システムの応用に提言するのがメーカー系エバンジリストの役割であり、新技術に鋭い感覚を持つベンチャー精神を持ったユーザー企業内外の技術者達の感応・対応です。
小生がIT自由人と呼んでいる、鋭敏な技術センスと頭脳・手足を働かす能力の持ち主達の活動です。
それがBです。
Bの活動によって、新技術応用のビジョンが顕在化するわけですが、これだけでは本格的な企業導入・展開にはなりません。
IT組織としての受容、CIOの決断、各種パートナーとの協業、エンド・ユーザーやCEOの同意など、いわくステーク・ホルダーのベクトルを纏め上げることによって、やっと船出にこぎつけることが出来ます。
これがCです。
その後プロジェクト開発を経て安定運用の仕組みに回っていくことになります。
この局面においても多くのSEの多様な活躍があるわけです。

 小生がユーザー主導アーキテクチャという旗を立てて、クドクドと主張しているのは、要はこの技術サイクルを速く回しましょう、新しい発明・発見を企業ITに素早く利活用出来る仕組みを作りましょうということです。
そのために、プライベート・クラウドの考え方や商品を利活用しましょうということです。
このグルグル回りをコストやスピードの点で上図に回すために、アプリケーション・コンテナーを新しく考えましょうということも主張しています。
アプリケーション・コンテナーの考え方はJAVA JVMが既にあるわけですが、それを技術サイクルの変化に容易に対応できるようにしたり、新しいクラウド時代の技術を上手に利活用するために、エンタープライズで使えるクラスの仮想アプライアンスのコンテナーで回しましょうということです。
それが例えばeVA(enterprise class Virtual Appliance)の例示です。サンプルです。

 これがSEの戦略的な技術力の話しとどういう関係があるかというと、このような新しい仕組みを準備出来れば、SEがもっと自由にその能力を発揮でき、充足感を得、企業貢献できるだろう、ということです。

 Aのフェーズでインベンションの主役を演ずるのはメーカー系技術者ですが、そのインベンションを実システムとしてイノベーションに仕上げるのは現場SEの仕事です。図における右側のサイクルです。
ここでも、前に開発系の議論としてx86-64bitの例で論考したB とCの区別、峻別が重要になります。
B が先進技術のエバンジリズムです。ビジョン作りと技術検証で、多様な技術者の共鳴を大きなベクトルに盛りあげていく、純粋技術の技術リーダーシップです。
ここで活躍するのがIT自由人です、と言っているわけです。
で、プライベート・クラウドのプラットフォームを上手に作っておけば、技術検証やテスト・ビジネスなどの先行技術応用の局面で、社内外のタレントに縦横に活躍してもらえる筈です。
 しかし一方で、B だけではイノベーションは起こせない。
いろんなパートナー、あるいはエンド・ユーザーなど多様なステークホルダーが参画、納得してこそ、イノベーションの船出が出来るわけです。セキュリティや様々な技術の厚みも必須となります。
さらにグローバルな技術サイクルを考えると、多様な国内外のステークホルダーの参画となります。
そして肝心の新システムの安定稼動となります。
これらの受け皿のプラットフォームとして、プライベート・クラウドの技術を利活用しましょうということです。

一周毎に閉じていない技術サイクル. 過去・現在・未来が輻輳する積分効果

 この図が重要なのは、技術をサイクルとして明示的に表現している点でしょう。
何事においても、輪廻転生的な変化と回帰の循環転移は見られるわけですが、先人の努力や知識をベースに発展していく技術分野においては特にその傾向が顕著です。
技術革新が激しい ITでは左端の安定期が短く、技術の不連続性、すなわちClayton Christensenの"Disruptive Technology“が頻発します。
一方でこの技術サイクル全体に責任を持っている、例えば企業ITのCIOにとっては、安定とのバランスにおいて変化の決定に大変苦慮しているわけです。
ということで、小生たちはChange & Resilienceの旗のもと、プライベート・クラウドを活用したアーキテクチャ作りにチャレンジ、提言しているわけです。
停滞や後ろ戻りの許されない IT事業、 IT部門の前進あるのみの構図に、管理可能な構造を描こうとしているわけです。、

技術サイクルで企業ITを見ると、各技術や技術者の役割、位置づけや戦略がより明確に理解されます。
そして、強い意思・志向のもと、このサイクルを根気よく回し続ける事の重要さを教えてくれます。
マクロな技術サイクルの視座に、個々の案件を位置づけることによって、戦略的な判断・行動がとりやすくなります。的確な政治力の行使も可能になります。




技術戦略成功のための2枚腰. 市場創出と競合技術淘汰の合わせ技

- x86-64bit誕生の背景に探る、技術者の戦略的な政治力とは何か -2 -

2010年9月16日 記述


 さて、引き続き、 Itanium (IA-64) の動向に根本的な影響を与えた、x86 32bit から64bit化への動きの背景を見ながら、技術者の戦略的な政治力について考えてみます。

愚痴

いきなり愚痴から始めて申し訳ありません。ま、中島老いたり、ですね。
でも、愚痴を並べるためにこのホメオトシスのスレッドを作ったのですから、お許しください。

 何年か前には、MOT(Management of Technology)がもてはやされました。
多くの大学で学科や講義が準備され、それぞれ優秀なリーダーの方たちが教鞭をとっておられると思います。また日経BPの bizTech というような、優れた専門誌の挑戦もありました。
しかし、小生には、どうもうまくいっているようにも見えない。ここにも閉塞感があります。

物事がうまく回って、結果が出ているのなら、ドン・キホーテのしゃしゃり出る出番など無いのですが。。。

 しゃしゃり出て、また、昔話をしています。今回は x86-64bit化の攻防戦です。
このテーマを深堀することによって、業界動向の流れを決めた技術者の挙動を明らかにし、技術者の政治力とは何か、そしてそれが何故重要なのか、を探っています。参考に出来ると考えているからです。
ところが、誰もこんなテーマに関心を持っていないようです。本当に寂しいですね

 愚痴は愚痴として、小生の言いたいことは、3年先や、誰も未だ結果を出していないようなイノベーションを考え、企画するうえでの事例に似たものは、実は過去の風景、過去の教訓だということです。
だから昔話をお伝えしています。
永く続いている日経コンピュータの”動かないコンピュータ”の企画なども、同じ趣旨なのでしょうか。

 小生は、20年近く、いろいろとこの業界でお喋りをしてきましたが、ずっと小生は異端児でした。
何しろ、何を言っているのか、なにを言いたいのか、さっぱり理解できない、という評価が一杯でした。
IBMの有料セミナーで独演会をやった後のアンケートで、”金を返せ!”と書かれたこともあります。
それでもスタイルを変えられませんでした。
一般的なお喋りは、殆ど常套手段として、事例を並べて説得しようとします。
良い悪いの話ではなく、今のクラウド論などを見ても、ま、殆どがその手法にも見えます。
ところが小生のお喋りには、抽象論ばっかりで、今も昔も事例なんかまるっきりありません。
まぁぁ、3年先の話、3年先のイノベーションの話に、事例など未だ無いのは当然ですよね。
Javaの時も、Linuxの時も、何故そうなるのか、という理屈ばっかり喋っていました。
でも、横並びの事例でしか物事を理解しない、未来の話など聞く耳を持たない人達も多かったですね。
素直に聞いてくれていれば、人材も早く揃えられ、もっと SI での先行者利益を上げられただろうに。。。
クラウドでもそうだろうと考えています。
ですから、日本にはMOTなどの正攻法が根付くのが難しいのが理解できます。

 ”日本は技術力はあるがビジネス化が下手だ”、と、よく云われますが、小生は、一般的なビジネス化が下手だという以前に、日本の技術・技術者に、正しい政治力が欠けているのだと考えています。
しかしここで小生が主張する政治力という言葉は、一般に想像される内容とはかなり違っているとは思います。
ざっくり言えば、政治力とは、人を動かす、人を糾合してことを為すリーダーシップのことですよね。
問題なのは、
① 今の日本の政治力は非常にローカルな方法と考え方に閉じている
② グローバルで結果を出せる政治力(の方法)に脱皮する必要がある。
ということだと考えています。、

ということで、今回のシリーズで小生が主張したい技術者の正しい(本当の結果が出せる)政治力とは、
①技術者を魅了する、技術の真実を旗にしたリーダーシップ
②ビジネスの覇権獲得のための、(ゲームとしての)なんでもありのリーダーシップ
の徹底的な使い分け、であると考えています。勿論ベースに絶対的な信頼が前提です。

 今、我々技術者は現状の政治力を蔑み、自身に必要な重要資質であると考えてもいないと思います。
技術者資質の論を見ても、コミュニケーションの論はあっても政治力を謳うものは見たことがありません
。逆に技術者の顔をしながら巧みに政治力を発揮し、世の中を、企業を堕落させている面々も多い。
しかしこれではこれからのグローバルな競争に勝てないと思います。
 グローバル化激化の中、技術者の育成は、技術戦略は、という喫緊の課題を抱えたまま、日本ITは既に何年も無駄にしてしまいました。小生には、何か具体的に事が進んでいるようには見えません。
 
というこで、これからの厳しいグローバルな競争を勝ち抜くための方策を、過去に探ってみましょう

技術の真実を果実にした情熱、その果実を餌にして勝機を窺う怜悧な企業技術戦略

 前のブログで、x86-64bit化の大きな流れの背景を追いながら、その仕掛け人が2人の技術者ではないかという推論を述べました。2人の IBM Fellowのボトムアップな仕業だったのではないかと。
 その真実は不明ですが、彼らがこの件で大きな役割を果たしたことを、前のブログで、当時の業界動向のエビデンスを深堀することで確認しました。ほぼ同意していただけたのではないかと思います。
重要なのは、技術者個人が、技術の真実を他の多くの技術者に伝播させ、業界の x86-64bit化の流れにスイッチを押したことです
(個人としての)技術者の政治力とは何か、それがどれくらいの力があるのかを、知ることが出来ます。
 では、2人の技術者の仕掛け人としての成功の理由、その政治力とはなんでしょうか。
これは、中身の濃さ、テーマの持つ価値の大きさ、彼らの高い技術力によるリーダーシップでしょう。
そして、技術の持つ真実、その真実への技術者の情熱と誠実さ。これが技術者の政治力でしょう。
小生も、何回も述べてきましたように、完全に彼等の情熱に感応してしまい、巻き込まれたわけです。
繰り返しますが、技術者自身の市場創出へのエバンジリズムの情熱が、技術者の政治力の要です

  しかしその成功もつかの間、この事件の仕掛け人(と思われる) Rich Oehler が、結局再び敗者になってしまいました。この辺に、個人としての技術者の政治力の華と限界が見えてきます。
前の論考の最後ににも書きましたが、Rich Oehler の技術者としての夢は叶いましたが、Newisys の企業としての成功はなかった。また、彼がAMDに移った後の第2局面でも Intelに敗れてしまいました。
皮肉な事に、x86-64bit化の大成功が、Rich Oehler を叩きのめすことになりました
本当に市場で成功するためには、第2ラウンドの戦いがあったわけですね。

 このあたりの事情については、なかなか公には見えてこない。またWebで堂々と論陣を張る事の難しさもあります。
日経BizTech No.005 (2005年3月20日)で、米マイクロソフト元副社長の西 和彦さんが、
「世界制覇のために、Wintel が舞台裏でやったこと」
という投稿文を書かれておられます。
小生にはそんな重い絡みも何もありませんので、第3者としてx86-64bit化の風景を探索したい。
小生の動機は、この過去の事例を探索することによって、技術戦略のツボを勉強したいという事です。

 当時の風景から推察するに、小生は、結局 IBMが絡んでいたのではないかと考えています。
IBMとしては前のブログにも書きましたが、当時は Intel IA-64 (Itanium)を高く評価していたわけですね。
そして、自社のPowerプロセッサーと二股をかけて、Monterey というプロジェクトを Intel, Sequent, そして(後にLinuxの件でIBMを訴えた)SCOの3社と組んで推進していました。
ですから、当初は Rich Oehler の提言などは無視していたに違いありません。
(無視していただろう元サーバー技術担当で元IBM Fellowの、怜悧で無表情な仕草が眼に浮かびます)
ところが、くだんの Martin Hopkins がワ~ワ~騒ぎ、彼の意見に賛同する学者や業界のアーキテクトも急増してきた。さらには、プロジェクトMontereyでコンパイラーを担当していた(後に IBM Fellow になる) Kevin Stoodley までが、IA-64の現実と悪戦苦闘の末、ダメだと言い出した(らしい)。

 そして、これらの技術の流れと並行して、大きくIBMの戦略に影響したのが業界の大変動でしょう。
当時の優れものマイクロプロセッサー、 Alphaを擁する DEC がCompaqに買収され、さらにそのCompaq が HP に買収されてしまった。この時点ではっきりしてきたのが、IA-64 に対する HP の影響力の大きさです。IBM にもこのマイクロプロセッサーの政治的な重要さがはっきりしたのだと思われます。
Intel が強く推進する IA-64 をどう扱えばよいのか。かなり悩んだに違いありません。
 当時、AMD の動きに呼応するようにして、Intel 自身も Yamhill というコードネームでx86-64bi マイクロプロセッサーの開発を行っていた事実は業界でも広く知られていました。
しかし Intel が IA-64 の未来を閉じてしまうかもしれない Yamhill を発表するとは、誰も考えなかった

 さて、こんな状況で、貴方が戦略担当だったらどうされますか?

 前のブログに書きましたように、 IBM は 2002年、AMD 64bit, Opteronサーバーのサポートを突然発表しました。Newisys のサーバーにDB2を搭載したものです。
IBM announces Opteron support but lacks business rationale”、ZDnet、07/22/2002
この記事にあるように、業界はビジネスとかけ離れた IBM の唐突な発表に,戸惑いを隠していません。
これは明らかに、 永く捨てておいたRich Oehler の提言を改めて受けた形で、AMDでいくぞ、という Intel に対するシグナルだと考えられます。しかし、なぜか、その後、IBMはAMDのプロセッサー を積極的に採用しませんでした。最近の発表でも、x System はあくまで Intel 一本でいくようです。
Big Blue finally punts an Opteron 6100 server”、The Register、08/31/2010
PC事業が依然として大きな売り上げを占めていた当時の IBM にとって、Intel やMicrosoft との良好な関係の維持は今にもまして重要だった筈です。Intel を怒らせることは簡単にはできなかったでしょう。
(余談ですが、このようなIT業界関係力学の常識感覚の上で、最近 HPが、前CEO Mark Hurdの Oracle への再就職の件で訴訟を起こしましたが、このHP の現行取締役会のセンスの無さを糾弾する記事が出ています。”Clean Up The Mess At HP”, Forbes.com, 9/13./2010)

 この一連の動きを技術戦略として見れば、IBM のOpteron 採用は、 Intel に Yamhill (x86-64bit) を世に出させるための呼び水、もっと言えばポーカー・ゲームのブラフのようにも見えます。
結局、元IBM FellowのRich Oehler も Newisys も、その駆け引きに翻弄されたようにも見えます。
以上は小生の勝手な推論ですが、仮にそれが事実だとすれば、やはり戦略とは恐ろしいものですね。

 実はSUNもこのゲームに遅れて参加したようです。そしてSUNはAMD Opteronを自社の戦略商品として展開してきました。
Newisys close to Sun AMD deal”、the inquirer、11/05/2003
ところが、Oracle の Larry Ellison もやはり怖いですよね。この Opteron 路線を打ち切ってしまいました。
Oracle kills AMD Opteron on Sun iron”、The Register、05/27/2010

押さえるべきは技術の循環サイクル. 忍耐強く回し続けることが継続的な成功の鍵

 ということで、このx86-64bit化の事件を追ううちに改めて見えてきたのが、技術成功の2重構造です。
技術の成功には2つの重層したベクトルがあり、その絡まり合いを冷静に押さえることが鍵のようです。
その一つは、個々の技術者の発明・発見と成功への情熱、そして単独企業としての技術推進や技術施策など、比較的純粋な技術の切口から見た成功のベクトルです。。
 もう一つは、その純粋な技術を標準化したり、スタンダード・デファクトを確立するような、他者・他社を巻き込んで市場を拡げ、ビジネスの成功や社会価値を確立するベクトルです。怜悧で政治的な駆け引きで覇権争いを勝ち抜くための技術力です。知財の攻防もここに入るのでしょう。

 時間軸の推移を含めて、この辺の事情がスッキリと表現されているのが下図のように思います。
この図の出典は大神(2009)さんの論文です。素晴らしく解り易い。

 

 図 技術サイクル


出典:左図は大神が解説のためにTushman and Rosenkopf (1992) を整理し直したものです。
大神 (2009)、
「技術進化における社会政治的ダイナミクスと技術サイクル、製品の複雑性」、赤門マネジメント・レビュー 8巻2号 (2009年2月)
図中 A, B, C, D は中島が追記

 x86-64bit化の事例を上図に当てはめてみましょう。
小生は先ず、技術成功の2重構造を、上図の上半分と下半分に当てはめて眺めてみたい。
比較的純粋な技術の切口が上半分、政治的技術のベクトルが下半分です。

 そして小生は、Martin HopkinsとRich Oehlerの2人組の仕事は上図のBに当てはまると考えています。
さらに小生の勝手な推論である、IBMやMicrosoft などのx86-64bit 化への企業リーダーシップと、それに対応した Intel の戦略的行動はCに当てはまると考えています。
この2つは明らかに違うものです。
最初に x86-64bit 化対応を開発した AMD SledgeHammer (Opteron) はAにあてはまるのでしょう。
そして、昨今の畳み掛けるような Intel のNehalemなどのマイクロプロセッサー群はDに当てはまると考えます。
今までの技術成功のアジェンダは、このACの議論に閉じていたように思います。

 この技術サイクルの系全体を対象にするのが MOT の議論だと思いますが、小生はMOTの素人でもあり深入りできません。しかし、x86-64bit化の事例で理解出来たことは、技術成功のためにはBCが大変重要であり、そしてBCの峻別が特に重要だという点です。Bの存在とそのBをステップにしたCの詰めの展開です。

 農耕社会を基盤として成長してきた日本社会は、CDの政治力に長けていたのだと思います。
また技術サイクルの安定期を引き延ばす力にも長けていたのでしょう。そして逆に、個人プレイ的な図の上半分のAB は比較的に弱かったのだと思います。
しかし今までは、それはそれでうまく安定し、回っていたのでしょう。改善型の技術サイクルですね。
ところが今、その安定した技術サイクルとその要素間のバランスが大きく崩れていっているようです。
それが、今の日本及び日本ITの、将来への危機感と現在の閉塞感の一つの原因のように思います。
 理由は比較的に明瞭だと思います。
Cの団体戦の政治力やネゴシエーション力が、今までは単一の日本国内だけで閉じていたのでうまく機能していた。それがグローバル化し多様化したために、今までのノウハウが通用しなくなってしまった。
得意の村社会的な”大人の裏ワザ”、政治力が、多様な世界では全く通用しなくなってしまった。
もともと ベンチャー企業的なA, B が弱いところに、業界安定型でのC,が全く通用しなくなった。
マーケットや競争者の広がりで、企業自身の思惑や主導だけで勝手にサイクルを回せなくなった。
それでも技術サイクルはグローバルに循環し、さらに新興国の勃興で、手持ちのDも危なくなってきた。
 円高の進む中で企業の海外移転が激増するわけでしょうから、結果としてこの技術サイクルのグローバル化も一気に進むことになります。
技術の破壊的な変化以上に、技術サイクルを構成するルール変更という、Disruption が起こっている。

では、我々はこのDisruption にどう対応すればよいのでしょうか。
丁度、明治維新の時のような大激変に対応する施策が必要のようです。
当時は帝国主義で富国に邁進すればよかったし、結果も出せたわけですが、今回はどうでしょうか。

 世界に冠となる個人としての科学技術者の養成や、 英会話能力必須の大合唱、さらには従来からのMOTの技術戦略論の再燃など大騒ぎなのですが、効果はどうでしょうか。
すり合わせの技術とか、企業グループの上下関係や談合的な阿吽の呼吸でCをうまく回して系全体が安定していたのですから、これが破綻して、新しく学習し、方法を造り直すためには長い時間がかかるのではないかと思われます。Cでの政治力をグローバルに通用出来るレベルに変えるためには、民族としての学習過程が必要かもしれません。突然に変わってこなせる課題ではないと思います。

 小生はこう考えています。
先ず、この技術サイクルの考え方を基本にして、新しい時代のグローバルな循環におけるリーダーシップ確立のグランド・デザインが必須だと思います。覇者を目指すアーキテクチャ創りですね。
そのアーキテクチャのフォーカスは B, C に置く。
循環の右側、不安定期への挑戦のアーキテクチャを主軸に置く。
そのうえで、
とにかく、個別技術に切り込んで、偶有的に一つ一つの案件の成功を訴求する。
その意味では、Dにも髪を振り乱し、Aにはさらに挑戦していく。
しかし基本的に重要なのは、技術サイクルのアーキテクチャを具現化していく地道な努力だと考えます
一つ一つの案件を回しながら、グローバル時代のネゴシエーション力を強化し、味方を増やし、技術素材を活用したバーゲンニング力を強化していく。
幸いにして、幾つかの先進国には多少劣るかもしれないけれど、技術の創造力、実力は、新興国に対しては未だかなりのリーダーシップを発揮できる力を、今、持っているわけです。A, Dは今はある。
その力を出発点にして、この技術ライフサイクルを国家戦略的に回していく。
一番大きな狙いは上図のB, C の強化・再構築です。技術者自身の市場創造への政治力、そしてグローバルな市場覇権への組織的な政治力、この両方をOJT的な方法で強化していく。
根気よく、ぶれずにです。
で、重要なのは、繰り返しになりますが、偶有的に、一件一件の案件で勝っていくことです。歯をくいしばっても、少々の持ち出しがあったとしても、このライフサイクルを回していく強い決意ですね。
技術サイクルのアーキテクチャを確立し、過去・現在・未来が輻輳する積分効果を訴求します

 小生はクラウド時代における、ユーザー主導のアーキテクチャ創りを提唱しています。
それは、プライベート・クラウド構成を基盤にしたビジネス・プラットフォーム上で、IT 自由人と企業の組織力が絡み合いながらグローバルな複合力を発揮する、少々大言壮語に過ぎますが、この技術サイクルでいえば B, C を強く、大きく育て上げるアーキテクチャとして夢を描いています。

引き続き、上図をモデルにして、SEの技術論、政治力などについて論考していきます。
最後にもう一度、このテーマの趣旨を繰り返させていただきます。

「 ざっくり言えば、政治力とは、人を動かす、人を糾合してことを為すリーダーシップのことですよね。
問題なのは、
① 今の日本の政治力は非常にローカルな方法と考え方に閉じている
② グローバルで結果を出せる政治力(の方法)に脱皮する必要がある。
ということだと考えています。、

ということで、今回のシリーズで小生が主張したい技術者の正しい(本当の結果が出せる)政治力とは、
①技術者を魅了する、技術の真実を旗にしたリーダーシップ
②ビジネスの覇権獲得のための、(ゲームとしての)なんでもありのリーダーシップ
の徹底的な使い分け、であると考えています。勿論ベースに絶対的な信頼が前提です。」




x86-64bit誕生の背景に探る、技術者の戦略的な政治力とは何か -1

2010年8月29日 記述


2010年2月21日に、”同日発表されたIBM POWER7とIntel Tukwila.やっぱり黙ってはいられない”その1、をホメオトシスのスレッドに記述してから、既に6ヶ月が経ってしまいました。
この間、マーケットはどう動いたのでしょうか。

 さて、ここでは Itanium (IA-64) の動向に根本的な影響を与えた、x86 32bit から64bit化への動きの背景を見ながら、技術者の戦略的な政治力について考えてみます。
弱小のAMDがAMD64というアーキテクチャを発表し、巨人Intelが渋々追従したあの事件です。
一方で、日本は技術力はあるがビジネス化が下手だ、と、よく云われます。
グローバル化の中では、結局それは業界の、あるいは業界や国境を越えた政治力となってきます。

 政治力とはなんでしょうか
人を動かす、人を糾合してことを為すリーダーシップのこと、だとしておきましょう。
戦略的な、とは何でしょうか。(これもここでは時間をかけずに)、”大きな仕事をする”、ということに。
そして技術者の政治力とはなんでしょうか。

謎だらけの x86-64bit 誕生の背景

 では、PCサーバーやPCに64bitを持ち込んだx86-64bit化の仕事は、戦略的だったでしょうか
これは、今、私たちは当たり前のように思っていますが、ITの歴史に改めて置きなおしてみれば、大きなイベントだったことがわかります。一時的ですが、Intel とAMDの力関係が拮抗し、リーダーシップが逆転しそうになったこともあったのですから、大きな仕事だったのは確かでしょう。
 確かにマイクロプロセッサーの32bitから64bitへの拡張は、DEC Alphaを最初にして、PowerPCなど順次行われていきました。その文脈では当たり前のことのように見えます。
Intel 自身がそれまでx86を16bit、32bitとアドレス幅を拡張してきたアーキテクチャー作りのストーリー展開を考えると、何を大騒ぎするのか、という異論がでるかもしれません。

 一方で、Intelが IA-64 (Intel Architecture 64bit, Itaniumアーキテクチャ)を、IA-32 (x86 Architecture)とは別に定義・開発し、膨大な人物金を投入してマーケットを作り上げようとしていました。
x86アーキテクチャのパスには64bitはない。64bitは根本的に新しいアーキテクチャIA-64に移行する必要がある、これが x86アーキテクチャのオーナー、Intel の意思だったわけです。
そして、IA-64 に IA-32エミュレータを実装することによって、IA-64への統合をも画策していました。
 ところが、意に反して、このx86エミュレータは酷い性能でした。全く使いものにならなかった。
さらにIntelはソフトウェア・トランスレーションの方法にチャレンジしますが、これもダメだった。
ということで、x86のソフトウェア・ユーザーにとって、IA-32とIA-64という全く異なる2つのアーキテクチャが生きたまま、固定化することになってしまいました。
 この背景のもとで、広くコモディティ化した x86 32bitのソフトウェアを、パーフォーマンス・ペナルティ無しで実行できる 64 bit プロセッサーの出現は、市場にとって、非常に大きな価値があったわけです。
そして、x86 に関わる普通の人々は素直に考えたわけです。ありがとうAMD、そしてバイバイ IA-64..
(どこかの国だけはそうは考えなかった)

やはり大事件ですよね。

 AMDという、Intel に比べればコバンザメのような存在だったx86互換プロセッサー・メーカーが、マイクロプロセッサー・アーキテクチャーの基幹となるアドレスの機構を先んじて定義・発表してしまった。
しかも、後追いで Intel が追従し、あろうことか、64bitアーキテクチャとして両者の互換性がとられた
Intel とAMDが仲の良い企業であれば不思議でもなんでもないかもしれませんが、両者が熾烈な競合関係にあったことを考えると、とても不思議な出来事だったわけです。
 結果的に、本家のアーキテクチャが、先走った互換プロセッサー・メーカーに追随する形になった。
誇り高きIntel が顔に泥を塗られたのに、我慢強く耐えていたように見えます。巨人Intel がです。
 さらに不可思議なことは、この最初の64bitアーキテクチャの出自が良く解らないらしい
AMDが導入したのですからAMDがアーキテクトしたのは勿論ですが、それだけではないらしい。
良くわからない理由には、多くの方がこの事件をPCプロセッサーの話として見ているからでしょう。
当時のAMDは、パソコン・プロセッサーの小さな互換チップ・メーカーに過ぎませんでした。
 後になって、AMDのCTOが交代した2005年9月のCNETの記事に、こんなことが書かれています。
Father of Athlon 64 leaves AMD”、 CNET, September 7, 2005
" It is hard to say who precisely was behind the (Athlon 64) development, but Fred certainly was a big contributor," said Brookwood. "Most of the technology changes that AMD has made while he was there turned out to be good ones."
Athron 64 は、コードネームがClawHammerといい、最初に電撃的に発表されたSledgeHammerの縮退PC版です。AMDが後で出してきたものです。
では、のちにAMD OpteronとなるSledgeHammerの真のアーキテクトはだれなのでしょうか?
x86互換をベースに AMDが64bitを導入しただけでは、Intel を慌てさせることは出来なかったでしょう。
これが仮に事件だとすれば、この展開の仕掛け人、主犯はだれなのでしょうか?

 刑事ものTVですぐに出てくる答えは、誰が得をするのか、得をしたのか? を追えです。
しかし先ず言えるのは、この事件の顛末は非常に複雑に由れているということです。
実は、誰が得をし、誰が損をしたのか、歴史的な結論は未だ出ていないと思われます。
AMDは得をしたのか? Intel は本当に損をしたのか? そして背後にいた人物は得をしたのか?
 ということで、複数犯の共同謀議のようにも見えますが、そうではなく、複数の政治力の、ダイナミックな絡まりの流れの中で見ないと、この事件は理解できない、と小生は考えています。

 さて、ここでは先ず一番簡単な疑問の答えの一つを見てみましょう。
Intel とAMDの64bitアーキテクチャの互換性が、どうしてそんなにスンナリと達成されたのか。

Intel とAMDの、二つのx86アーキテクチャの互換性を図ったのはMicrosoft

 最初の疑問の答えの背景として、一番得をした可能性が高いのが、Microsoft だと思われます。
64bitアーキテクチャの、複数のWindows開発を避けたいのは当然です。
  嫌がるIntel を尻目に、Microsoft は早々とAMD64のサポート発表しました。
そしてAMD64版Windowsを、わざわざ『X64版』と呼んでいた事実は、Microsoftの意図を明確に顕しています。アーキテクチャ互換性のイニシャティブを取ったのはMicrosoftに間違いないでしょう。
 この辺の事情は、後藤弘茂さんのWeekly海外ニュースに詳しい。
"いよいよYamhillのベールをはぐIntel"、PC Watch、2004年1月29日
"ついにYamhillを公式に認めたIntel"、PC Watch、2004年1月30日
"YamhillとAMD64の互換性"、PC Watch、2004年2月2日 --A
後藤氏のAの解説によると、(Apr/2002?)のMicrosoft のWebサイトに、この辺の事情がMicrosoftの関連裁判記録で露見し、触れられているようです。

 ではMicrosoft がこの事件の、x86-64bit化へのストーリー展開を考え出した、主犯格なのか?
Microsoft は2005年にWindows XP Professional 64-bit Itanium Edition の販売を止め、代わりに x64 Edition の販売を開始し、遂に2010年4月に残るサーバー製品である Windows Server でも今後のItaniumサポートの中止を表明しました。ちなみに、Red Hatはそれに先立ち、2009年に次期RHEL6でItaniumをサポートしない事を表明しています。
 しかし、当時も今も、Microsoft がIT業界、さらには企業システムを制覇して、名実ともに本当の覇者になろうと志していたのは疑問の余地はないと思います。Googleが台頭し、Bill Gates が引退した今も、Steve Ballmer の闘志は変わっていない。 IA-64はそのための玉でもあったはずです。
その意味で、Microsoft が、IA-64を切り捨てx86-64bitに乗り換えることの主犯だったとは考えにくい
誰かがx86-64bit化を画策して、それが愈々現実味を帯びてきたときに、互換性の主導権を取ったのはMicrosoft だったのは確かだと思われます。その方がMicrosoft にとって得だったからですね。

 このケースは、どうも技術者のボトムアップな政治力に企業群が踊ったというように小生は考えます
では、技術者のボトムアップな政治力が、どうしてIT業界を動かし得たのか、
ボトムアップだとすれば、何故そんな大きな力を発揮できたのか、それを探るのが、小生の主題です。

流れを作った仕掛け人は、2人の(元)IBM Fellow ?

 10/ 5, 1999、AMDが突然、SledgeHammer という、攻撃的なコードネームで、x86-64bit製品、即ちAMD64開発計画をIT業界に登場させました。 Intel がIA-64のコードネームMercedの正式名称を Itanium とすると発表した翌日でした。

その1年前の10月、この事件の勃発前夜の状況証拠を、小生は目撃していたように思います。
POWERとItanium について論じた半年前のブログで、このような文章を小生は書きました。再掲します。

半信半疑で聞いた衝撃の技術論争.大激論だったIBM科学アカデミーのナイト・セッション 
1998年のIBM科学アカデミーのナイト・セッションで、小生にとっては大きな転期となったIA-64に関する技術討論会がありました。
時差の関係もあって、夜10時から始まったセッションは兎に角猛烈に眠かったのを覚えています。
小生は辛うじて起きていて世紀の激論を垣間見ることが出来たのですが、横にいた長野DEはすっかり眠り込んでいて、このチャンスを逃してしまいました。
強烈な印象を我々に与えたのは、IBMのRISC開発のコンパイラー系第一人者、IBM Fellow のMartin Hopkinsの大演説でした。
"IA-64のようなアーキテクチャは、絶対に成功しない。そんな、神をも恐れない思いあがった考え方は、必ず大きな罰を受けるだろう!”、と、あたりかまわず怒鳴りまくっていました。英語でです。」

小生は、x86-64bit化の仕掛け人は、このMartin HopkinsRich Oehlerの2人組だと考えています
何故か。 それは本人達の(自供に近い)言動と、数多くの状況証拠があるからです。
そして何よりも、この2人には強い動機、衝動に似た情熱と、実行の高い技術力があったからです。

 この2人は、当時、共に IBM ワトソン研究所の IBM Fellow で、今はリタイアしています。
そして、あのRISCの発端である801プロセッサー5人衆のうちの2人なのです
"A perspective on the 801/reduced instruction set computer"
801は同じくIBM FellowのJohn Cocke が考え出したのですが、Martin Hopkins もそれに関連したコンパイラーで有名で、PL.8の発明者です。なんと哲学科出身らしい。
ちなみにRich Oehlerは数学科出身です。
 Martin Hopkins は大変エキセントリックな人で、気に食わないと会話の途中でもソッポを向きます。
IA-64 (Itanium)はEPICというVLIWのアーキテクチャなので、RISCの権化のMartin Hopkinsが嫌うのは理解出来ますが、それにしてもIBM内に限らずITの学会・業界を走り回って罵っていました
業界ではAMDに限らずMicrosoftなどもその洗礼を受けている筈です。
特に小生が状況証拠の一つに挙げたいのは、AMDのSledgeHammerというコードネームです。
IBM科学アカデミーでの大演説では、こんなアーキテクチャは punishされるのだ、と何回も叫んでいましたが、これを日本語に意訳すれば、大鉄槌を下してやる!、ですよね。
AMDが、十二分にMartin Hopkins の情熱の影響を受けていたことの証左だと、小生は考えます。

 一方で、Rich Oehlerは大変温厚な人でした。
Rich Oehlerは当時Jim Rymarzickと共にIBM科学アカデミーのHW分科会の世話役をやっていました。
そして、くだんの討論会を仕切っていた筈です。
そして、このx86-64bitの流れを作った、もう一人のというか、実は主役の技術者だったようです。
それは、次のレポートにもはっきりと明記されています。
2003 InfoWorld Innovator: Rich Oehler”、InfoWorld, 5/23/2003
Rich Oehlerのマイクロプロセッサーのあるべき姿に対する熱き想いが、事を成したと
Rich Oehler は彼の夢を叶えるために、ベンチャー企業Newisysの創立に参画します。
(SledgeHammerの名の本当の由来が何かは小生には解りませんが、新天地に楔を打ち込むという意味もあるように思います。これはRich Oehlerの想いから見た小生の勝手なもう一つの分析です)

 と云うことで、真実はこうなのでしょうか。
AMDがx86の64bit化の構想と原設計は当然持っていた。しかしそれは全くのニッチに過ぎなかった。
それを巨人Intel が震撼するIT業界の流れに持っていったのは、この2人の(元)IBM Fellowであると。
それを示すのがNewisysの存在と、その後のPhil HesterやRich OehlerのAMDでの要職でしょう

ステレス・ベンチャー Newisys. テキサス・オースチンの地で発露した技術者の熱い想い

 それではNewisys とはどういう企業か。そしてRich Oehler の役割はなんだったのか。
"Stealth company coming into open"、Austin Business Journal、11/16/2001
2003 InfoWorld Innovator: Rich Oehler”、InfoWorld, 5/23/2003
 Newisys は2000年7月、テキサス・オースティンで、秘かに(ステレスに)スタートしました。
創立者はCEO Phil Hester、COO Clay Cipione の二人。そしてCTOとして Rich Oehler が、IBM Fellow 職をなげうって参画していました。
 1998年、Rich Oehler はAMDに招かれ、x86-64bitの何か原型のようなものを見せられたといいます。
そして、これこそが彼が永年育んできたプロセッサーの理想を実現するためのだと感応した。
彼は直ちにIBMに、AMDのx86-64bitのプラットフォーム開発プランを採用するように動いたけれども、残念ながら実現しなかった。当時のIBMは未だ IA-64 を本命視していたからでしょう。
1999年一杯待って、彼はIBMでの実現を諦め、Newisys でCTOとして飛び立ちました。
名前が"Newisys"、というのは、New + I + System ということでしょうか。
Rich Oehler は、IBM Future Systemsで挫折し、また IBM 801でも当時のIBMに冷たくされ、IBM Fellow に推挙されたとはいえ技術者の夢を主流製品としては実現できていなかった。
 一方のMartin Hopkins は、SCE Playstation 3 の Cell チップ開発アーキテクトの一人として、新しいマイクロプロセッサー開発に情熱を燃やしていました。

 さて、Newisys で隠密に始められたx86-64bit化の技術開発は、2002年、AMDを含むベンチャー・キャピタリストから $27.9 million の追加融資を受けるために一部ベールを脱ぐことになります。
それで判明したことは、Newisys が、新たに "glue-chips for Opteron"を開発し、32プロセッサー搭載の大型Opteron サーバーのプラットフォームを開発する秘密結社だという事でした。
そしてそれを、AMDと共に Compaq、IBM、Dell に納入し、x86-64bitで業界を抑える筈でした。

 AMD Opteron は 2003年4月22日に出荷が始まり、Newisys の設計したサーバーは既に顧客の手に渡っていました。
Microsoft、 CA、SuSE、 Red Hatなど多くのソフトウェア・メーカーの支持も得ていました。
そして、Rich Oehler が説得を続けたIBM も終に、 Opteronベースのサーバー開発を発表しました。

 この辺の事情が以下のWebサイトで見ることができます。
05/09/02 Newisys, AMD, and Dell - the inquirer
05/20/02 AMD set to steal Itanium thunder - Net World Fusion
07/23/02 IBM announces Opteron support - ZDNet
08/13/02 AMD shows Hammer running Red Hat Linux - the inquirer
08/18/02 Newisys to demo Opteron System - AMDboard
11/05/03 Newisys close to Sun AMD deal - the inquirer
08/27/04 Newisys readies Chipset for big Opteron iron - Computer Business

 このように、Rich Oehler の技術者としての夢は叶いました。Opteronは成功しました。
しかしNewisys の企業としての成功はありませんでした
2004年に製造担当だったSanmina-SCIに身売りしてしまいます。そして転々と身売りが続きます。
Rich Oehler は Phil Hester とともにAMDに移って、Intel との戦いが続きますが、それも2008年で完。
皮肉な事に、x86-64bit化の大成功が、Rich Oehler を叩きのめすことになります

この辺の事情は、"x86-64bit誕生の背景に探る、技術者の戦略的な政治力とは何か -2"、で
論考を進めていきたいと思います。


追記:
 Newisys の創立者の一人でありCEOになった Phil Hester もIBM出身です。
彼はIBMに23年勤務し、多くの要職についていました。IBM PC division のCTO兼VPも務めた技術系のExecutive です。Rich Oehler とはこのころ仕事を共有していたのでしょうか。PowerPCの世界です。
当時のIBM開発部門は大型企業サーバー系のIS&TGとPCや通信製品を担当していたIS&CGとに分かれていました。実を云うと小生は、IS&TG側の人脈に繋がっていましたので、IS&CGのことはよく知りません。日本IBMの大御所、三井さんの人脈の方の方がPhil Hesterをよくご存じでしょう。
 Newisys 自身が大手ITベンダーに翻弄され、その役目を終えた2005年3月、AMDにCTOとして招聘されました。そして多くの職務を歴任しました。アーキテクチャ戦略、製品戦略、AMDのマイクロプロセッサ事業計画策定の責任者でした。AMD Fusionの推進ですね。
 面白いのは、AMD Technology Council の議長を務めていたことです。
彼がAMDに持ち込んだ制度なのかもしれません。
というのは、Phil Hester は IBM CTC (Corporate Technology Council)のボード・メンバーでした。
IBM CTCは大変重要な仕組みでした。(今もあるのでしょうが、。。)
 AMDの技術戦略がIntelの前で粉砕された後、2008年11月、Phil Hester はAMDを去りました。
この間、 2005年3月から 2009年1月まで、Rich Oehler はAMDのServer CTOでした。




ITルネサンスで目指すもの. SE・プログラマー単純復古調を超えた新世界

2010年6月19日記述


 ここではITルネサンスのWhite Paperみたいなものを提案してみたいと思います。たたき台です。
小生がITルネサンスに拘る背景は、もう今さらの、現在の日本が抱える、日本ITが抱える閉塞感です。そんなことはもう耳タコ状態ですよね。
ここでの議論は、未だ何の根もない大甘の夢想にすぎません。
でも、まぁぁ、喚いていれば何とかなるかもしれません。

ITルネサンスの三種の神器.先進の技術、ビジネスの成功、社会価値の実現

 で、中島の考えるITルネサンスはザックリ次の3つを目的にしたいと思います。
まず、 やっぱり我々一人ひとりの人生充足、幸せへの環境作りから入りたいですね。
① 技術屋である以上、自由な想いのままに作品を作り上げたい。
それは新技術を縦横に駆使した瑞々しさに満ちたシステム創りです。
意気消沈の時代からの脱出は、技術への賛美から出発出来る筈です。
しかしそれが出来るためには、現行のIT環境は余りにも制約としがらみが多すぎます。
② 次に重要なことは、その新システムでビジネスの勝ち組になることが必須です。
勝たなければ全てが画餅、水泡の類です。
国家財政云々も、全てはグローバル経済戦争に勝ち抜いてこその議論でしょう。
③ さらに結局の落とし所は、私たちが生きる、私たちの社会での多様な価値実現です。
新興国の活力をバネにしたグローバルな新しいインフラ作りがそれを可能にしてくれるのでしょうか。

 これらの指標を満たす格好の材料の一つが、例えばスマーター・プラネットの旗印です。
大騒ぎしているエネルギー関連の行く末に大きな影響を与えるスマート・グリッドのチャレンジも、元気な高齢化社会を支えるヘルスケアーの社会システムも、、結局は、徐々に見えてきた個々の新世代 IT、新世代エンタープライズ・システムの実現に本質的に依存しています。
ITが主役、新世代の企業基幹系システムが主役の、地球・人類の新ステージの幕開けです。

クラウド、それはクラウドよりも遥かに豊か

 世界規模のインフラ再構築の旗頭として、クラウド・コンピューティングがお似合いです。
しかし一方で、スマーター・プラネットを実現するクラウド論などでは、如何に優れものであろうとも単にGoogleやAmazonのしかける現在のWebビジネス・モデルだけに拘泥するべきではありません。
確かにWeb 2.0で飛翔したピープル・クラウドの可能性には目を奪う輝きがありますが、物理世界を再価値化する広義のAR(Augumented Reality)を実現する情報リンクの結晶の乱反射は未知の色彩です。
もう一度、わくわくする自由な心で、クラウドのプリズムが映し出す大空に賭ける虹の橋と対峙したい。

IT自由人活躍のために、ユーザー企業主導のクラウド・アーキテクチャの場構築を提唱

 次世代のIT自由人、新しいSE・プログラマー種族が実力を発揮し、彼等自身が自律的に夢を育むためには、ユ-ザ企業主導のクラウド・アーキテクチャの場が効果があるのではないかと考えています。
例えばeCloud研究会のスレッド、”イノベーションの試行を可能にするスケーラブルなフレームワーク”で論じたような、企業イノベーションを可能にする新しいクラウド・アーキテクチャの構築です。
企業とIT自由人が上手にその場を共有・利活用すれば、日本IT再生のきっかけも掴めることでしょう。
ここでいう IT自由人とは、当該企業のIT屋さんでもいいし、自主独立の夢追い人でもいい筈です。
それらのイノベーターが、企業のプライベート・クラウド上で自由に遊ぶ。 ITルネサンスです。

 ラマンチャ通信で書き綴っているノスタルジアにいくら耽っていても、現在の ITの複雑さでは、キホーテ流の竹槍一本やりでは、小さなコンポーネント一つ動かすことが出来ないのは解りきっています。
しかし、プラトンが抵抗した如く、マニュアルと会議の罠に全てを陥とし込んでしまう、ソフィスト流の弁術論が仕切る現在のIT業界の視界では、「夢のあるシステム」など創造出来る望みも持てません。

 例えば小生が一番嫌いなソフィスト的IT用語に「リファレンス・アーキテクチャ」という言葉があります。
これほどアーキテクチャ本来の言霊を侮辱・矮小化したものはないと、常日頃、喚いています。
そんな使い道の言葉ならば参照モデルとでも呼ぶべきです。それだけの精神性しか内在していない。
この言葉使いと共に、肝心のシステム屋からシステム創造の夢と形がもろくも崩れ去っていきました。
小生は代用教員の大学院の講座で、"情報アーキテクチャ 特論 I"を論じていますが、そこではアーキテクチャ論の精神的な復権を主張しています。形而上学的な意味論と技術との絡み合いです。

 以前、”ITの風景”でクラウド系のコミュニティを同好会と揶揄し、体育会系の頑張りを支持しました。
小生も大学時代、確かに空手部に在籍していたことがあります。
 しかし実のところ、小生の本態は全く体育会系ではありません。ルールや窮屈さには耐えられない。
日本IBMでは、少なくとも2度も明示的に組織を頸にされ、外された実績のあるはぐれ者です。
退職前にも小生のプロポーザルはコテンパに踏み躙られました。ラ・マンチャに住み着いた所以です。
The EaglesのDesperado を聞きながら激しく感応する、コテコテの自閉症の、組織はみ出し人間です。
その内にいろいろと書きなぐるつもりですが、幼いころから社会性が無く、今の時代であれば間違いなく引きこもりになっていた筈の、空想夢想の少年期を過ごしました。
そして年老いた今も、ホメオトシスを友に、My Questです。

小生は埒外のドン・キホーテですが、ITの優れた才能の持ち主には自閉症的変人が多いと思います。
海外の組織ではこのような人々の活躍は当たり前ですが、日本の組織ではどうでしょうか。
プライベート・クラウドを上手に作れば、この人達の力でソフィストに打ち勝てるかもしれません。

大変失礼ですが、自閉症のIT屋諸氏、足湯のコミュニティに浸っている場合ではありませんぞ。
体育会系にはもう任せておけません。
広いグリーンの競技場に躍り出て、世界のメーンプレーヤを打ち負かしましょう!
ITルネサンスの背骨となる、わくわくするようなアーキテクチャ創りで、ゴールを目指してみませんか?

勝手に自閉症なんかに分類するな!という怒声が聞こえてきます。すいません。IT自由人の事です。

大いなる蛇足

 ラマンチャ通信の記述では、義理人情、気合、意地、根性、度胸とかの精神論が溢れています。
そんな文章がブログで踊る時には、先ず間違いなく小生は冷や酒で酩酊し、YouTubeのカラオケで唐獅子牡丹や無法松の一生などに遊び、任侠の仮想世界でしんみりと涙してから筆をとっています。
...おぼろ月でも墨田の水に、昔ながらの濁らぬ光、
   やがて夜明けの来るそれまでは、意地で支える夢一つ...
はやぶさプロジェクトの経緯に感涙して、システム屋は根性や、と、メタボ狸踊りに嵌まっています。
「本物のSEはPMBOKを使わない」
 
わいは、FORTRAN、アセンブラー、APLなどで、山なす質量兼備のプログラム群を書いてきたわい。
入社2年めで某自動車工場のシステムを仕切り、日曜日の夜毎に特急に乗りこんでマシンルームに出没してOSを修正しまくり、有る月曜の朝、システムがIPL(ブート)出来ずで、車の製造工程を半日止めた実績(?)もあるんや! 情シスの全員が手書きのパンチカードを持って工場を走り回ったんやで。
入社3年めで、NASAシステム担当者が絶句した、23事業所に個別独立した生産管理も含む全企業シテム群を、自前プロトコルと運用管理システムでたった一台の当時のスパコン・システムに統合設計し、熾烈なコンペを征し、数百人のお客様たちと100点満点で移行・実稼働を成功させたこともあるんや!

 このシステム設計・競合で、3ヶ月間会社の会議室に籠りきり、電話帳3冊分のプロポーザルを一人で書き上げたものの、一晩爆睡したために、一番大切だった母親の死に目に会えなかった。。
悲しかった。。。ほんまに自分を阿呆やと思った。。これが小生の大きなトラウマになってしまった。
それ以来、ひ弱なマザコンが、無くした至宝に見合うシステムを求め狂う鬼になってしもうたんです。。
多かれ少なかれ、そんな想いで創り込み、造り上げるのがSEの作品。。システムなんと違いますか。。

おいおい、それがお前の云う ITルネサンスなのかよ、と、腰を浮かす方々も沢山おられるでしょう。

いや~、すいません。冗談です。。(半分は本音ですけど。。)




はやぶさが運んでくれた感動.そうだよ、日本人って、こうだったじゃない!

2010年6月14日記述


 とにかく、とにかく素晴らしいですね 
ドン・キホーテに嵌まって、ウロウロと地を這っていた小生が憧れ、一番見たかったシーンでした。
古びたボコボコのブリキの鎧を身にまとい、伝道したかったメッセージの全てが表現されていました。
ありがとうございます。
 数日前のNHKで、30分の短い特集でしたが、地球に帰って来るはやぶさの、プロジェクトが映し出されていました。 成功を迎えつつあるプロジェクトの美しさがスッキリと描ききられていました。
オーストラリアの夜空を突っ切りながら、希望の流星に変わっていくはやぶさとカプセルの美しさは、もう言葉で表現しようのない輝きでしたが、数日前に映し出されたプロジェクトの映像も眩しかった。
 絶望の淵で見せたプロジェクト・リーダーの仰天するような不屈の精神と発想の飛翔。
暗黒の大宇宙で行方不明になってしまったはやぶさの両翼が、太陽との出会いで小さなエネルギーを受け取り、交信を復活する極小の可能性に賭けて、川口教授はプロジェクトを再生させました。
そしてその交信を来る日も来る日も追い続けたプロジェクト・メンバーの献身。
度重なるアクシデントをその都度乗り越えるプロジェクト・メンバーの絶対的な当事者能力。
イオンエンジンを復活させた周到なるバックアップの設計・組み込みなど、など、この人達は凄い。
プロメテウスがオリンポスから盗み出し、人間に与えた潜在力が、チームの力で顕在化していました。
イカロスのつばさを超えるはやぶさの新しい太陽神話が、今、日本人の手によって生み出されました。

地球の東の端っこにへばりついて立ちすくんでいる辺境の日本人が、もう一度、出直せるのかも。。
だったら嬉しいなぁぁ。。

よし...、嫌がられても、疎まれても、誰も耳を貸さなくても、ITルネサンスの主張は続けよう。
管理のための管理術論や、志の定まらない後追いの技術論に、遮二無二に切りこもう。
ホメオトシスのキホーテよ、脊を伸ばせ..錆びついた勇気の槍を前方に押し立てよ。
重すぎると泣き言を吐かずに、メタボの下腹に気合を入れ、忘れ果てた根性だけでも呼び起こそう。
ふんぞり返って、後ろに、仰向けに倒れてはいけない。それだけはいけない。
足元がふらついていても、つんのめって兜ごと顔面を地面に打ち付けようとも...前に進むのだ。
気絶したキホーテの脊を乗り越えて翔ける、次世代の荒武者の鬨の声が聞こえるではないか。。




セールスフォース・ベニオフCEOに云いたい。日本人にも意地と度胸はあるで

2010年5月30日記述


 今日だったかな、(酔夢かもしれません)、アップルのiPadを褒めちぎるニュース番組で、日本を訪れていたセールスフォースのベニオフCEOに脚光をあびせながら、最後にインタビューがありました。
何故、日本ではこのような革命的な商品が生まれないのかという質問でした。
ベニオフCEO曰く、日本の企業人はリスクをとらないからだ、との一言でした。
技術はある、しゃーけんど、リスク含みの冒険をしないと。

 日本人は弱虫ハッチなのか。優しいけれども、肝心な時には右往左往してお母さんの後ろに隠れる。

TVでは、ベニオフCEOの対面に、日本法人社長の宇陀栄次さんが、溌剌とした顔で写っていました。
いや~、相変わらずのパワーフルなお姿でした。お元気そう。
 宇陀さんとは今も昔もなんの関係もありませんが、彼が未だ日本IBMで関西のさる大手のお客様を担当しておられた時に呼び出されて、”IT動向”の喋りくりに出かけた事があります。随分昔の話です。
朝からのお客様へのセッションだったのですが、彼が一向に現れない。
不審に思っていたところ、実は通勤の途上で、交通事故の現場に第3者として居合わせて、これから警察にいくのだということでした。
どうもその事故というのが暴力団絡みのもので、見過ごすことができないという。
証言するという。
「ふむ、大したものだ」、と、かなり感銘したことを思い出します。
「度胸があるよな。正義漢でもある。」、と。

 当時、北城さんが社長になられてすぐの、営業系のビジネスレビュー・ミーティングがありました。
各主要部門の責任者が戦略を、北城さんを含めたHQスタッフに論理的に説明・主張する場でした。
その場で、石川常務という、生粋の営業あがりのリーダーがプレゼンテーションに立ち、開口一番、
「営業は気合や
と叫びました。
多くのHQ関係者が大きくのけぞったのを覚えています。

 昔はプロジェクトも、意地と度胸で突破したものでした。
そのころはプロジェクトで失敗したという話は聞いたこともなかった。ノイローゼにもならなかった。
夢も一杯あった。

 いつのころからか、科学的なPMと言い出し、日本IBMの技術リーダー達はPM出身者が占めるようになった。日本のIT屋の価値観の大半もこの科学者に占拠されてしまった。
科学的なPMが、リスクを選ぶわけないよな。。。

でも日本人には昔から意地と度胸はあるのやで。
今流行りの土佐弁風に云えば、なめたらいかんぜよ!

....でも、頑張らな、あかんよな。。

蛇足ですが本文の内容はセールスフォースになんの関係もありません。
単なる狂言回しに引用させていただきました。失礼な言い回しがありましたらお許しください。
 




平和を志向する ITアーキテクチャって、どんな風になるのかなぁぁ

2010年5月16日記述


 この1,2週間は滅法忙しくて、素浪人生活の筈が何故こんなことになっているのだろうかと、自分では納得している筈の、相変わらずの中途半端な生き様を女々しくなじったりの日々でした。
今日はその嵐もかろうじて乗り越えて、窓枠の向こうの小さな風景を眺めながら、チビリチビリの、垣間見える風景と同じくらいの、とても小さなこちら側の楽園にいます。

 楽しみと言えば、小説家の山本周五郎のファンでもあって、周五郎作の”人情裏長屋”を元にしたシリーズ時代劇 TV、”ぶらり信兵衛 道場破り”の復刻版を見ながら、深いため息をつくことも度々です。
 この TVをご存じの方は殆んどおられないと思いますが、疲れた心の癒しの面では優れものです。
十六店の裏長屋で、少しのお酒でのんびりとした日々を過ごしながらも、時々は回りの連中の”面倒”の助けのために、コッソリと道場破りでお金の用立てをする、そんな竹光落とし差し素浪人のお話です。
主人公の信兵衛役の高橋英樹さんがとてもいいのです。もう、ピッタリの嵌まり役の、人情風情です。
 このTVは、1973~1974年の東映作品ですが、当時SEとして公私ともども人生の修羅場のど真ん中にいた小生にとって、かけがえの無い癒しの番組でした。
 
 最近の癒しの時間といえば、YouTubeで検索する懐かしい人々の音楽や動画です。
YouTubeって、本当に素晴らしいですね。そしてその作品をダウンロードできるフリーソフトも得難いものがあります。企業系のIT屋としてはグウの音も出ません。
 昨夜は高校生時代以来の大ファンである、ハリー・ベラフォンテのビデオを楽しみました。
小生の英語が滅法下手なのは、彼のレコードを若い日々に聞き込み過ぎたせいだと考えています。
小生の脳味噌が英語を言語として受け付けなくなってしまった。
そのベラフォンテに、全くの偶然に、IBMの技術者のコンベンションで会え、彼の生ボーカルを聴けたことは驚愕の極みでした。神様とIBMの小生への贈り物は、あれで全部使い果たしてしまったのですね。

 さて、話が随分遠回りになりましたが、本題です。
実はそのハリー・ベラフォンテのビデオでは、彼が企画し、多くの歌手が賛同して集まって大合唱となった、あの ”We Are The World” を謳いあげていました。懐かしいです。そして新たな感動です。
彼が何度も、"Peace!, Peace!"って観客に呼びかけるのです。
 静かな窓枠の風景を眺めながら、そのシーンを思い浮かべ、ふと、IT屋って実際はなんだろうな。。と
ぼんやりと考えています。そんな文脈で私たちに何が出来るのだろうか。。。

 今丁度、大学院で情報アーキテクチャについて講義をしています。
アーキテクチャの語源は、建築様式のことで、ギリシャ都市国家構築のイデアにあたる。
後に哲学となる”思想”を基にして、具現化するための”技術”を内包したものである。
作られるべきシステムのインスタンスを生成するメタ・システムである。
アーキテクチャの”思想”は、主観的な”志向”と客観的な”指向”を骨組みにして、”領域・制約”と”規範・規約”のキャンパスに描かれ、品質とNFRの色合いを強く滲ませる。。。
主観的な志向では嗜好も入り混じり、多様なステークホルダー間での価値観の差による軋轢もでる。
そのような差異を乗り越えるためには、共有出来る適切なビジョンが必須となる。
そしてさらに重要なのはエキュゼキューション、インスタンスしてのシステムが確実に実行出来ることである。 (NFR: Non Functional Requirement)
 
で、考えるのは、”平和を志向する ITアーキテクチャって、どんな風になるのかなぁぁ。。”、です。

学習機構を備えエンリッチする リアルタイムなアナリティック。。。
広範囲な事象・データによるサーベリアンス。。。
そして速やかなレジリエンス。。。
パンデミックもあるなぁぁ。。
インテリジェンスかぁぁ。。。スパイかい?

クラウドって、平和に役立つのかしら。
サイバー戦争って、もうやっているよなぁぁ。。 
国家継続戦略ね。
でも、決めるのは人だよなぁぁぁ。。。
大陸間弾道弾の歯止めの仕組みって、どうなっていたっけ。。。

う~ん、、、政治システムね。。。。政治家の資質。。。。
う~ん、、、
なんか小生の思考(志向)が稚拙で矮小化してきたみたいです。。。とにかく試行停止します。




我がクエストのマイルストーン.素浪人生活1年を過ぎて思う事

2010年4月18日記述


 早いもので、40年間を務めあげた企業生活を終え、ドン・キホーテの心を気取って始めたMy Questもはや一年を過ぎました。
という事で、やはり月並みなモノローグで一年を締め、新たなるスタートラインに着こうとしています。
何しろ確たる決心もなく、ホメオトシスという自分の半身を従者に従えて始めた単身の旅は、ラマンチャ通信という喧騒の小さな宿場に迷いこみ、結局、ヘロヘロに疲れ果ててしまいました。
”ラ・マンチャの男”の映画を見られた方には通じると思うのですが、ピータ・オトゥール演じる元々ヘロヘロのドン・キホーテが、”正義と思い込んでいること”のために奮闘して、さらにヘロヘロになってしまう、そんなシーンの連続でした。
とにかくブログを書くのは大変です。そして自由人の筈が何とスケジュールにも縛られている。
誰に何をお伝えしようとしているのかも曖昧なまま、書くことの脅迫観念だけは存在する。
プロの物書きの人達が、如何に偉大なる方たちなのかを身にしみて感じ入った一年でした。

そして今また、何か得られたものを大切にして、新たな一歩を踏み出すために、このラマンチャ通信のWebサイトを一新したいと思いながらも、結局何の新味もなくズルズル始めてしまいました。
Twitterや携帯が主流を占める今、くどくどと書きつづる文体も少し反省しています。
ま、その内に、ということで。 でも思い起こせば60数年、これが中島流だったよなぁぁぁ。。

さて、今、どのあたりにきているのだろう。

一つ云える事は、IBMを去って禊の一年は過ぎたということです。
まぁぁ、やんわりとですが、喋りにくい事も公にして書いてみました。
で、実績として、IBMからは何のクレームも叱責もこなかった。
これって、きっと大きいことです。小さな端っこだから眼に入らなっかったのでしょうが、実績です。
これで自由人になれたかもしれません。
もう奥歯にものが挟まったような物言いの必要はないのでしょう。

で、どこに行こうかしら。

徘徊老人(浪人)だ!といって迷惑扱いされないように、慎重に行動しなければなりません。
でも、慎重さと計画性の無さが、中島の売りだっしなぁぁぁ。。。
そうそう、早速の云い訳です。
この四月から大学の講義がまた始まりました。忙しいのです。もっとも代用教員ですが。
 昨年は散々でした。
何しろ、40年間の公然の秘密、”中島の話はとても理解できない”、という真実が露見してしまいました。
チョット油断したのですね。大敵です。世代や価値観がズレタ観察者からは小生は裸の間抜けです。
ボコボコにされてしまいました。
大学出の若い女性の一言、”古いワ”。。。 こちとらとしては、とても未来を喋っている筈なのにです。。And the world will be better for this
That one man, scorned and covered with scars
Still strove with his last ounce of courage
To reach the unreachable star            ラ・マンチャの男のメロディーの最後の一節です。

 で、今年は気を引き締めて仕切りなおしています。
幸いにして、ほぼ大半の受講生が実力ある社会人の方たちです。
昨年は、クラウド論をぶっても何かチグハグしていたのですが、今年は世間様も変わりました。
そしてボチボチではありますが、実際の製品も姿を現し始めました。
実は昨年の途中で、eCloud研究会のレポートを中断していました。
これ以上書いても、誰も読んでいないだろうな、と気付いたからです。
で、またボチボチと書きつづろうかなとも思っています。
 
いずれにしても、(憧れの)体育会系の元気さが取りえの中島です。カラカラと歩いて行こう。
そして今窓から見える風景は晴天です。
老人よ町へ出よ。
(残りすくない) 春やで




同日発表されたIBM POWER7とIntel Tukwila.やっぱり黙ってはいられない

2010年2月21日 記述 その1 


 最新のItaniumモデルであるIntel Tukwilaが、噂通りに2月8日,サンフランシスコのISSCC 2010 (InternationalSolid-State Circuits Conference)で正式発表されました。
一方で、IBM POWER7も同じ日に発表されました。
どちらが仕掛けたのかは存じませんが、両プロセッサーの発表が同日にぶつかりました。
Intel Tukwilaが元のスケジュールから3年遅れ、IBM POWER7が数カ月早くなったせいのようです。

 業界プロセッサーの技術評価や動向は、本来、”ITの風景”に書くべきテーマなのですが、このホメオトシスに書きます。
実は中島をよくご存知の方達には、中島がItaniumについて書きだしたら、もう結論は見え見えで、さっさとこのスレッドから逃げ出してしまわれるぐらい、ま、バレバレなのです。
鼠が猫を嫌う以上にItanium嫌いの小生は、この10年間、ほぼ一人で日本市場のItanium翼賛体制に反攻してきました.流れに掉さすドン・キホーテ道(Quest)です。
複数の国産メーカーの開発部門のExecutiveの方たちにも、”日本ITの将来を想うなら、即刻 Itanium を素材に使うのは止めるべきである”、と、説き回ってもきました。
実のところ、彼らには物凄く忌み嫌われましたね。
IBMの御本家にも執拗にItaniumの製品使用の中止を諫言しまくり、終に2005年、IBMにItaniumサーバーの打ち切りに踏み切らせたのも小生の執念でした。 実はこれも結構迷惑がられました。
 ところがあろうことか、Itaniumのビジネスは日本市場では大成功し、グローバルとは全く違う結果になってしまいました。 小生は本当にドン・キホーテになってしまったのです。

 しかし現実を見て下さい。今日の状況は小生が心配していた通りになってきたように思います。
解りきっていたことですが、Nehalemというx86アーキテクチャがハイエンドにも浸食することが愈々顕在化し、Itaniumの将来性はそれこそ”クラウド”に包まれてきています。霧がかかって前が見えない。
これがさらにクラウド時代が本格化した時、日本ITの命取りにならないのかどうか。

 ということで、この機会にホメオトシスに小生の想いを勝手気ままに書いてやろうと決心しました。
オメオトシス風の、余談、秘話、自慢一杯の、回り道スレッドになると思います。
10年分の想いが溜まっていますから、とても一回では書ききれないので、随時更新していこうかなと考えています。
嫌いだ、というだけでは小生の品位が問われますので、簡単に嫌う理由を挙げておきます。
-優秀なコンパイラーさえ準備出来れば、いつかは処理性能を飛躍的に挙げられるという虚言
-インテル製だからItaniumも業界標準だと強弁し、x86との区別に誠実に対応しない偽善
-軽量スレッドやインタープリタ的動的言語の時代に全く適応できない大鑑巨砲アーキテクチャの原罪

”不沈の巨大客船 Itanicの大航海.何処へ向かうのか?船客は行き先に納得しているのか?”
とでもタイトル付けしたいのが本音です。
ま、とにかくIntelはTukwila後継の、Poulson、Kittson の技術的な内容とタイムフレームの詳細を明示しなければならないと思います。尤も、またまたスリップやデコミットされてしまえば何にもなりませんが。
そして一番肝心なのは、信頼性と性能が大幅に強化されていく、Nehalemというx86系アーキテクチャとの違いを、本当のお客様価値のテーマで明示すべきだと思います
しかし、Tukwilaが、前のモデルMontvaleと互換性があって、価格性能比で倍になったから良しとするユーザー企業も多いと思われます。
価格性能比が上がればハードウェアの詳細なんかどうでもいいではないかと。 何が問題なのかと。
しかし小生はそんな考えには与しえません。 時代が大きく変わろうとしているのですよ。
クラウド時代を迎えて、小生はインフラもプラットフォームも激変すると考えています。
どう変わるのか。そして大切なアプリケーションがその変化についていけるのかどうか。
....Intel だから大丈夫だろう、という声が聞こえてきそうですね。。。。またか。

とにかく、TukwilaとPOWER7の将来について、小生なりに考察し、追ってみたいと思います。

日本ITのガラパゴス化は、技術への拘りのDNAと、コモディティ化鼎立の絶対矛盾か?

 元々日本ITは、日本の製造業と同じで、DNAが技術指向、技術付加価値化指向だと思います
これが、過度のカストマイゼーションやNFRへの拘りで、日本ITをある意味でガラパゴス化している。
その一方で、製造業的イデオロギーとしての、コモディティ化にも深く共感しているわけです。
で、両方を鼎立出来る妙策として、Intelハイエンド・プロセッサーであるItaniumに飛びついた。
 ところが海外は違うわけですね。もっと割り切っているわけです。Intelにハイエンド・プロセッサーなんか期待していないわけです。だって元々パソコン文化と月ロケットとは違うと考えている人達です。
で、Itaniumがx86の代替製品でないと解ると、彼らは早々とItaniumを見切ってしまった。
悪いことに、これが日本ITにとって、大きなチャンスだと見えた人がいたわけです。錯覚です。
グローバルに、付け入る、入り込む大きな隙ができたと理解したわけです。 
SUN, DELL, IBMなどがこぞって撤退した後に存在する、主がいない、空き家同然の有望市場だと。
どうもHPの実力を過小評価していたのではないかと思います。でも大きな見込み違いをしてしまった。
結局、全世界のItanium市場の85%をHPが押さえてしまった。 残りの他社は、 ISA(Itanium Solutions Alliance) 等を組んで、Itanium マインドシェアの向上だけに利用された形です。

 何故ニッチ市場が本命に見えたのか解りませんが、以前にも同じようなことがありました。
重要な事なので敢えて書きますが、IBMがメーンフレーム事業をCMOSマイクロプロセッサーに全面的に切り替えた時、従来の恐竜型の水冷型Bipolarメーンフレームの性能に大きく劣り、性能レンジ的に大穴が開いた時期がありました。米国では当時のお客様のシステム規模もあってか市場にも大穴が開いたわけです。従来型メーンフレームがいなくなって、空いた市場が突然現れた。
 ここに日立がBiCMOSという大変優れた技術の翼竜型メーンフレーム、スカイラインを投入しました。
当時、野球界では野茂投手が日本人として初めて本場に鮮烈デビューしていたのですが、この日立スカイラインは野茂だ野茂だと大変な人気を得、日立の米国小会社HDSが世界のメーンフレーム市場の20%近くを獲得したのです。空前絶後の大成功でした。
 日本でもバッチ処理が大丈夫かなど、IT業界でワァワァ言われましたが、我々はCMOS & Sysplex という並列メーンフレームのイデオロギーを主張していましたから殆んどインパクトはなかった。
ま、真実は日立としては世界制覇に忙しくて日本市場など目じゃなかったのかもしれません。
 しかしこの成功は長くは続かなかったのです。マイクロプロセッサー技術がプラットフォームを根本から変えてしまうスピードは速く、当たり前ですが、あっと言う間にこの翼竜を駆逐してしまったのです。
HDSとAmdahlという、日立、富士通の世界の橋頭保は一瞬にしてマーケットから消えてしまいました。
 
 Itanium でも同じことが起こっているのではないか。そしてクラウドではもっと酷くなるのではないか。
事実、日立の技術の粋を尽くしたBladesymphony の評価が、その実力に比して残念ながら海外ではあまり芳しくないように見受けられます。
2006年のCNET記事の、”日立、ブレードサーバ「BladeSymphony」の新モデルを発表へ”、にこんな記述があります。
「しかし、Itanium搭載システムのみの特長という点に関して、あるアナリストは冷めた反応を示している。 「この製品で最大の売りとなる特徴は、ハードウェアに組み込まれた仮想化技術と、複数のブレードを連結させて大規模なSMPを構築する能力だが、当面はItanium搭載システムにしか提供されない。技術的には興味深いが、日立の本拠地である日本市場以外で大口顧客に販売するためには、この点が大きな障害となるだろう」と、IlluminataのアナリストGordon Haff氏は述べた。」
日立オリジナルの技術は魅力的ではあるけれども、Itanium が素材では米国ではダメ、という事だと。
また、富士通が東京証券取引所の”arrowhead”に収めた「Primesoft Server」は素晴らしい出来だと思いますが、大きな欠点は、PRIMEQUESTという、Itanium サーバー上に展開されていることです。
SPARCアーキテクチャに大きく舵を取ろうとしている富士通にとって大変大きな重荷になるのでしょう。
もっと言えば、ユーザー企業に対する責任は大きい。
個人的なクレームで申し訳ありませんが、Itanium機に ”PRIMEQUEST” などという神聖な名前を命名することが許せない。小生のテーマはラ・マンチャの男の”QUEST"にあるのです。それをあろうことか、
”PRIME QUEST”だと!
世界のUnisysにIntelサーバーを供給しているNECはどうでしょうか。ここでも色合いがとても怪しい。
伴 大作さんの”Itaniumの将来は風前の灯か?”をじっくり吟味してください。

 さて秘話余談ですが、実は初期のCMOSは大変でもあったのです。すんなりとはいかなかった。
LPARの性能が出なかった。仮想化の性能ですね。メーンフレーム特有のI/OスループットにCMOSマイクロプロセッサーが追従出来なかったのです。仮想化といっても常時標準実装なので致命的です。
新しい技術の導入時には、常にこのような、”ウヘ”、が付き物なのですが、火事場の馬鹿力もSEの世界では備わっていて、この時も強力なオールマイティSEの、元日本IBM DEの長野さんが問題を闇にほおむりさりました。長野元DEはとにかく凄味のある技術やさんで、幾多のシステムの荒技・裏技(?)でお客様を救ってきました。IBMをリタイアしていますが、世界でも最古参・最強の現役SEです。
とにかく気が短くて、怒りん坊です。さすがの小生も歯が立ちません。怒るとサッと消えてしまいます。
そして何よりの驚きが、若かりしころ博多で、バンドのリード・ギターリストを務めていたのだそうです。
今でも彼のパソコンの背景には、あの、ジョーン・バエズの若かりし頃の写真が、美しく健在です。

技術の先進性を、市場に(自分に?)訴求できるかどうかがPOWER7の大きな課題

 POWER7 の前倒しは、汎用8コア・マイクロプロセッサーの、業界初の製品出荷であることを強く印象付けたいIBMの強気の戦略の現れのようです。IBM次世代スパコンの本命、PERCSの心臓部にもあたり、歩留まりなどの半導体技術なども含めて、大変な自信を持っているのは確かだと思います。
 一方でこの発表は、IBMがIntel Nehalem-EX 8コアを睨んでの発表であるのも確かだと思います。
ITの風景でも書きましたが、小生はかねてから2010年がマイクロプロセッサー決戦の年になると予想してきましたが、POWER7の成功不成功の如何でIBMの将来が決まるような気がしています。
Intel対IBMの未来の風景ですね。もっと言えばコモディティ指向 対 技術価値指向とでもいいましょか。

 本来は2009年までには市場投入されていた筈のSUNのROCKが消滅し、IntelのTukwilaが大幅に遅れたために、IBMにはかなりな競争上の余裕が出来た筈なのですが、AMDの挫折も含めて、逆に一気にIntel Nehalemへの市場の期待と眼が集中し、IBM 開発部隊も安閑とはしておられなくなっている筈です。
IBMのPOWER開発部隊の揺るぎない技術的な自信は深まっているとは思いますが、クラウド化のマインドシェアが市場に急速に浸透しつつある現在、先ずIBMの営業系の技術者をどうコンビンス出来るかが大きな課題だと思います。
 特に日本IBMの技術者達にPOWER7の本当の価値を納得させるのは、かなり難しそうですね。
実際、”POWER6の5倍の性能が出るからと言って、お客様にとって何の意味があるのか?”と言っているらしい。
以前から、IDCのレポートなどの、”Unix市場を決めるのは技術ではない、既存のUnixエンジニアのスキルと好みで決まる”、という法則性に盲従し、所詮AIXではだめなんだと自分で決め込んでいるわけですね。
ひょっとすると、経営陣も含めた日本IBM全体が、このプロセッサーの歴史的な意味を全く理解出来ずに、依然として労働集約的なサービス至上主義に漂流し続けることになるのかもしれません。
一言でいえば、本来がIBMという技術付加価値企業の、歌を忘れたカナリヤ状態のことですね。
マーケット分析や営業フィードバック重視の姿勢が間違いとは思いませんが、自社技術の本質をはなから理解出来ずで済ませておいていいのかどうか。会議だけをこなして、見掛け上のプロセスを幾ら作ってもビジネスにならない。
小生はpureScaleのクラスター技術も含めたPOWER7の圧倒的なスケーラビリティは、プライベート・クラウド構築の最先端に位置づけられるのではと考えているのですが、いかがでしょうか。

 1990年から始まったPOWERシステム事業のIBM内における位置も多難でした。
強大でIBM体力の基礎となっている自社メーンフレーム z事業と、コモディティ化の錦旗を掲げるインテル勢に挟撃されたまま、今日にいたっています。IBMにおけるUnix事業の位置づけですね。
この辺は、SPARCプロセッサーで最近まで右往左往していたように見える富士通と似た面もあります。
尤も、誤解されるといけないので敢えて述べますが、開発部門におけるPOWER系に従事する技術者とそのリーダーシップは圧倒的に IBMの主流を占めています。2004年にサーバー事業部と合併したテクノロジー事業部はPowerPCの母体でしたし、半導体などの研究者のマインドシェアを左右する基礎研究部門も、先ずPOWER系に近いからです。
先進テクノロジー的にはPOWERプロセッサー絡みで先行し、それをzプロセッサーが共有する図です。
この技術力で、結局、POWERは米国のUnix市場の50%近く、世界の40%を押さえてしまった
 日本IBMのPOWER事業担当者にとっての不幸は、この日米におけるUnixマーケット・シェアの大きな乖離にあるのでしょう。米国ご本社からの戦略指示は、マイナーな日本のマーケットでは中々そのままでは通用しないでしょう。そしてもっと事情が複雑なのは、同じPOWER事業といえども、伝統的なAS400の i と、RS/6000のお客様力関係が日米で全くの正反対だということですね。しかしこれなどは、POWER7群をクラウド・プラットフォームとして据え、その上に iOS系をVirtual Appliance のSaaSやPaaSのアプリケーションとしてSMB的に特化させれば最高のソリューションを作れるのではと思います。
 
 さて、もうひとつの日米で共通するPOWERの課題は、Linuxに対する距離感のように感じます。
AIXを掲げるUnix信奉者にとって、Linux はどのように写っているのでしょうか。
1998年に、くだんのLarrry LouksがオースチンからOpen SourceのLinux徴用の建白書を書きました。
IBM Fellow & VP of SW Technical Strategyの Larrry Louksは、元を質せばAIX技術者ではないかと思うのですが(確認していません)、彼がSUN Solarisが牛耳るUnix市場に Linux ぶつけたわけです。
これは戦略上大変大きかった。これでSUNは結果的にSUN setになってしまった。
IBMの Linux 戦略のターゲットはMSWindowsではありません。SUN Solarisだったわけです。
それと前後して、メーンフレーム z の技術者が鋭敏に反応しました。
元IBMの榊SEがいつも自慢するように、1999年当時、独ボーブリンゲン研究所の若手技術者がLinux をメーンフレーム z にボランタリーで移植していたのですが、実はもっと大事な事として、z 事業部の技術リーダー達が眼の色を変えてLinux/z を旗に掲げて政治的に走り回っていたのです。
小生は1999年秋のIBM Academyの総会で当時未だDEだったJeff Nickにこのアイディアを聞く機会があったのですが、、2000年一月にSCEの件でDonofrioを訪ねた時に彼のオフィスで Jeff Nick に会い、彼らの真剣さを理解しました。そして日本に帰ってから早速、白髪組を立ち上げたのです。
往年のメーンフレーマがLinuxの旗の下に参集し、気勢をあげたのです。
この件に関しては北城さんと、またまた激論を戦わしました。そして多少の紆余曲折はありましたが
Linux/z は大きな成功を収めたわけです。Jeff Nickは2000年にIBM Fellowに推挙され、ガースナー元会長の大きな祝福を受けました。
このような z技術者の積極的な動きに対して、POWERの連中はいかにも鈍重でしたね。
いかしこれからは事情は大きく変わるのでしょう。クラウド・プラットフォームにPOWER7が活用されるようになれば、Linux/z 以上にLinuxベースのVirtual ApplianceがPOWER上で必要になるでしょうから。

 さて、IBMがPOWER4の独自技術の成功でUnix分野に大攻勢をかける以前の状況を見てみます。
POWER3までの世代ではIBMは評価が低く、Intel IA-64との相乗りに未来をかけようとしていました。
パソコン文化やインテル系技術についての造詣は、実はIBMも相当深いのです。PC事業をレノボに売却してしまってはいますが、IBM互換パソコンの本家でもあるし、OS2開発に関わった多数の若手技術者も今は中堅、技術リ-ダーになっています。
1998年ごろには、NUMA技術の先駆者だったSequent社を買収したこともあって、一時はIBMのサーバー・アーキテクチャを大きくインテル系に統合する動きさえもあったようです。
Project Monterey, そしてFlexible Server の戦略ですね。
本スレッドでのメーン・テーマである、Itanium に、z も POWER も寄せて行こうとしていたようです。
当時は、Itanium, すなわち IA-64 (Intel Architecture-64)の衝撃が物凄かった証左ですね。
IBMという企業が、恐竜に似た図体だけの会社だと思われているかもしれませんが、大きな誤解です。
小生が垣間見ただけでも、殆んどの重要な戦略は真剣で柔軟でした。そして市場対応も早かった。
そのIBMは1998年当時、このIA-64をIBM主軸プロセッサーとして戦略決定していたようです。
この時創り上げたのが、IBM x 事業部のEXA (Enterprise X-Architecture)アーキテクチャです。
 話が飛びますがこれは大変な優れ物で、IBMのx86、IA-64 での大型SMPサーバー構成の要だけでなく、永く各社にOEMで活用されていました。NUMA技術によって高速で安価に大型SMPを構築できたわけです。NehalemのQPI化を受けてEXAの5世代も出てきそうですね。楽しみです。
 
 IBMはIA-64プロセッサーの積極的な採用だけでなく、z, POWER, して x というアーキテクチャの異なったサーバー群の統合化を何回も図ってきていました。
IBMにとってもまたお客様にとってもそれが達成できればある意味ハッピーなのですが、互換性、一貫性保持の絶対的に強い意思を持つIBMは、かってのHPCEO、Carly Fiorina が取ったような、茶ブダイを全てひっくり返すような真似はしなかった。Carly Fiorina はM&Aで手に入れていたDEC Alpha、Tandem MIPS、HP自身のPA-RISC の全てを廃して IA-64 (Itanium) にスクラッチから変更・統合してしまいました。
IBMも、このIA-64の当時の大変高い評価を受けて、統合的なことを考えていたのですね。
それがFlexible Server構想だったようですが、現実にIBMが取ったアプローチは、IA-64を2000年代の早いうちからターゲットから外してしまい、世代を経ながら慎重に共通部品化を進めてきたわけです。
半導体技術、オープン系のI/O回り、メモリー技術などと着実に統合してきています。
そしてコードネームeClipzで、ISA (Instruction Set Architecture)は別物ですが、z10POWER6 のプロセッサーのかなりの部分も共通化してしまいました。
しかし、SMP構成の結合技術は全く別物です。POWERでは全てのコアが1対1直結の一貫性制御をおこないますが、z では伝統的にディレクトリーによるSMP構成を取っています。そしてこれがx サーバーのEXAアーキテクチャの基礎となっています。
 面白いことに、IBM次世代スーパーコンピュータでは、膨大な数のPOWER7を1対1直結しながらも、共有メモリーのアドレス空間を可能にしているらしく、この辺の技術の巧みな活用がなされているようにも見えます。使いやすい汎用スパコンとして目玉になるこの機構は日立が分担構築しているようです。

 さて、一旦はIA-64を自社のメーン・プロセッサーと位置づけたIBMがどうして、大きくPOWERプロセッサーに揺り戻していったのか。その辺の経過を書かなければなりません。
そのためには、Itaniumアーキテクチャの光と影の突っ込んだ考察が必要になります。

 ということで、Tukwila とPOWER7の技術比較を中心に書いていきます。

同日発表でも、 IBM POWER7とIntel Tukwilaとの、これだけの技術スペックの違い

 さて両プロセッサーの比較ですが、技術的には完全に一世代ずれたプロセッサーどうしが比較の対象になってしまい、下表のようにスペックに大きな差が出てしまいました。
皆さんの立ち位置によって不愉快に思われるかもしれませんが、技術論を曖昧にして話題をすり替えてしまわないためにも、しっかりと議論を進めていきたいと考えます。
スペックで埋まっていないところや間違いは、随時チューンアップしていきたいと思います。

   POWER7  Tukwila  
 アーキテクチャ  RISC, POWER  EPIC(VLIW)、IA-64  *1
 アーキテクチャ特徴  TLP, DLP, ILP の追求  ILP の追求  *1
 アドレス  64 bit  64 bit  *2
 互換性  POWER, POWER6  EFI, Itanium2, Poulson  *2
 稼働OS  AIX, OS i, Linux  HP-UX, Linux, Windows, +  *2
 マルチコア数/方式  8/手動可変  4/固定  *3
 マルチスレッド数  4/コア/自動可変  2/コア/固定  *3
 マルチスレッド方式  SMT  垂直  *3
 スレッド数/チップ 32/チップ/自動可変  8/チップ/固定  *3
 クロック GHz 3.0~4.14GHz  1.33~1.73GHz  *4
 理論GFLOPS  256 GFLOPS  -  
 L3サイズ/方式  32MB/自動再配置  10~24MB/固定  *4
 L3 回路方式  eDRAM  SRAM  *4
 チップ・サイズ  567mm2  700mm2 *4 
 トランジスター数  12億(実質27億(eDRAM).)  20億  *4
 リソグラフィー  45nm SOI  65nm  *4
 チップ間接続技術  Elastic Interface  QPI  *5
 SMPトポロジー  256コア/1対1直結 16コア直結,~256外部  *5
 コーヒレントOP数  同時 20,000 OPs  ? *5
 SMPバンド幅  360 GB/s  96 GB/s  *5
 メモリー・バンド幅  100 GB/s、Dual Control..  34 GB/s  *5
 I/Oバンド幅  50 GB/s  19.2 GB/s  *5
 RAS  Full + 記憶保護キー  Full *6 
 省エネモード管理  Energy Scale  Partial  *7
 仮想化 1000 DLPAR, Mobility  ?  *8
 メモリー圧縮  AME  N/A  *9

*1:アーキテクチャ
 POWER7 は、2004年にPOWER, PowerPC, PowerPC-RS64を統合したPOWERアーキテクチャに準拠.このアーキテクチャは、RISC (Reduced Instruction Set Architecture)のIBM FellowであるJohn Cocke の IBM 801の血を受け継ぎ、1990年に発表された商用機RS/6000のPOWER1としてスタートしました。
当初はスーパー・スカラーと呼ばれるOut of Orderに特化し、ILP (Instruction Level Parallelism) を訴求、浮動小数点演算に特に優れていましたが、一般整数演算で要求されるクロック速度で劣り、DEC Alphaなどの他のRISCプロセッサーに比べてあまりパットしませんでした。その後大幅な設計変更を行い、2000年発表POWER4では、業界初のGHz(ギガヘルツ)プロセッサーを達成、これも業界初のマルチコア(2コア)やオンチップSMPスイッチを同時に実装して、SMP性能を一新させていました。
マルチコア化で実効的な性能を叩きだすためには、外付けのチップ機構を排して(glueless)、オンチップのSMPスイッチの実装が必須になりますが、これが*5のElastic Interface(EI)です。POWER6で3世代めのEI V3となり、全コアが1体1結合のトポロジーとなりましたが、POWER7では基本的な構造はPOWER6互換でアップグレードを可能にするとともに、5倍程度になる8コア性能を、*4のオンチップeDRAMやドラスティックな各種アルゴリズムにより足回りとのギャップを埋めているようです。
POWER4が現在のPOWERの成功を確実にした、IBM POWER技術の中興の祖と言えます。、
 POWER4ではILPの訴求とともに、TLP (Thread Level Parallelism) の設計目標を大きく喧伝し、新世代プロセッサーの要件を先取りしていました。これは同じ2000年に市場に初めて登場したItanium の、業界UP最高速を狙った、ILP追求アーキテクチャを強く意識したものでした。
実際小生は、”POWER4はUP (Uni-Processor)性能では世界最高速ではないかもしれないが、チップ性能では最高速です”、と当時の説明ピッチに書いていました。
当時は何か負け惜しみのような説明でしたが、このTLPアーキテクチャ要件実装の時間的な差が、その後の両プロセッサーの運命を決定的にしてしまったのです。
Web環境、クラウド環境での、ILPとTLPが両立する汎用マイクロプロセッサーへの流れです。
 一方Tukwilaは、コンパイラー技術を援用してILPを徹底的に訴求し、UP性能の高速化を図ったHPとIntel合作のIA-64 (Intel Architecture-64) アーキテクチャの6番めの(Itanium)プロセッサーにあたります。
IA-64は1988年にHPでの設計が始まり、1994年にHPとIntelの共同開発の発表があったわけで、RISC を凌駕する目的ための、1990年代の、そして依然として未完のプロセッサー・アーキテクチャです。
RISCアーキテクチャもコンパイラー技術への依存度が大きいのですが、IA-64ではEPIC(Explicitly Parallel Instruction Computer)という一般的にはVLIW(Very Long Instructiom Word)に分類されるアーキテクチャを起こして、徹底的にコンパイラー技術を駆使して大幅なILPの向上を狙っていました

半信半疑で聞いた衝撃の技術論争.大激論だったIBM科学カデミーのナイト・セッション

 1998年のIBM科学アカデミーのナイト・セッションで、小生にとっては大きな転期となったIA-64に関する技術討論会がありました。
時差の関係もあって、夜10時から始まったセッションは兎に角猛烈に眠かったのを覚えています。
小生は辛うじて起きていて世紀の激論を垣間見ることが出来たのですが、横にいた長野DEはすっかり眠り込んでいて、このチャンスを逃してしまいました。
強烈な印象を我々に与えたのは、IBMのRISC開発のコンパイラー系第一人者、IBM Fellow のMartin Hopkinsの大演説でした。
"IA-64のようなアーキテクチャは、絶対に成功しない。そんな、神をも恐れない思いあがった考え方は、必ず大きな罰を受けるだろう!”、と、あたりかまわず怒鳴りまくっていました。英語でです。

つまり世界最高峰のコンパイラー科学者が、コンパイラー依存の限界を強く主張したのです

という事で、このアーキテクチャ論争は佳境に入っていくのですが、小生も少々疲れてしまいました。
先は長いので、本日はとりあえずここまでとして、お別れしたいと思います。



Larry Loucks とのテキサス・オースチンでの朝がけの決闘

2009年12月18日 再掲載 


 クラウド時代という未来を軸に据えて、小生の経験したIT技術の変遷を辿りながら、
技術は甦る.不屈の根性か?素材の選択か?” を続けたいと思います。
2009年12月06日記述を2つにわけ、後半のホメオトシスの部分を再掲載しました。
J2EE誕生までの背景と当時のIBM Labの寸景を書いています。

Larry Loucks とのテキサス・オースチンでの朝がけの決闘

 John Tohmpson Sr.VP の指示を受け、 IBM Fellow & VP of SWG Technical Strategy のLarry Loucksをテキサス・オースチンに訪ねたのは1996年4月15,16日でした。
前日の日曜日に、坂本孝雄さんや河野紀昭さん達と3人で湖へピクニックに出かけたのですが、それがどういうわけか突然ヌーディスト・クラブの湖岸に入り込んでしまい、心底から仰天したりしました。
いや~ビックリしました。
この経験を詳しく書く適当なスレッドがないしMy Questの範疇外なので、Webサイトではボツにします。
..とはいえ、何に感心したかと言えば、亭主らしき男性が絶世の美女を従え湖岸を練り歩くのです..
 さて月曜日には早速Larry Loucksとの対決です。これも少々度肝を抜かれました。
彼は完璧でど派手なキラキラのカーボーイ・スタイルに身を包み、カーボーイ・ブーツを打ち鳴らしながら現れたのです。シェーンの怖い殺し屋、チャック・コナーズか、ローン・レンジャーのいで立ちでした。
さすがに腰には拳銃は吊ってはいませんでしたが、凄い斜視で、のっけから圧倒されてしまいました。
もちろんあのテキサス・ハットが頭に乗っていました。確か全体は白で統一されていましたね。
こちらは日本からの3人にポケプシーから Don Gilbert がIA (Intelligent Agent)を引っ提げて駆け付け、
オースチンにアサインメント中の清水敏正さんが飛び入りで参加しました。清水さんは後に日本のIBM WebSphereの父と呼ばれるようになります
 会議は、アッサリと終りました。小生が準備したプリゼンを進めるにつけ、Larry Loucks は一つ一つのポイント・ポイントで、小生の英語に大きく首を縦に振りながら”YES!、YES!" を連発するわけです。
凄い斜視で、ピストルで撃つように言葉を投げてくるものですからうまくキャッチするのに苦労しました。
ここでの会話も、他のメンバーには理解されなかったかもしれません。下手な漫才に見えたかも。
Larry Loucks とは完全に問題・課題を共有できている事が解りました。その後の親交の始まりです。
たった一つの”NO!”は、我々がJavaを叩くべき敵として描いていたのを、”ちゃう”といって否定された時でした。彼は余り多くを語りませんでしたが、其の時丁度Sunとの話し合いが進行中だったのでしよう。で、両者合意の提案書、設計書のようなものが出来上がりました。その抜粋が下図です。

 

上図にあるように、当時は、我々が主張していた3層ネットワーク・コンピュティングのモデルを大上段に "The Intelligent Network" と呼んでいたことが解ります。当時のインターネットは、通信屋さんからは Stupid Network と呼ばれたりしていたわけですが、”IA (Intelligent Agent)を実装してインターネットを取り込んだ次世代企業システムだ” という当時の我々の視座と心意気が伝わってきます。
今想うに、パブリック・クラウドにプライベート・クラウドで対抗しょうとしているスタンスに似ていますね。上図には何やら怪しげなロゴが付いていますが、これは”知の巣”の漢字を合成した小生の創作です。
Larry Loucks がロゴを作ろうと言い出したので、その場で皆で作りました。
それ以来、小生のドキュメントには必ずこのロゴを配しています。小生の精神の立ち位置です。
話が飛んで、さらなるホメオトシスすが、小生は結構ロゴ作りに長けているのです。(ご注文承ります)
例えば、ダウンサイジング当時の日本IBMシステム事業部長の上口さんがお気に入りの”▲▼”のロゴも、小生が使っていたロゴがベースです。由来は情報処理学会の論文を参照してください。

MSクライアントとはJavaで隔離.肝は2層めサーバーによるビジネス分散処理の実現

 さて、Larry Loucks と作ったNotes ベース・モデルが Java & Web ベースのJ2EE ヘ発展していくことになるのですが、両者には強い相関関係があります。それを示したのが下図です。
当たり前のことですが、よく似ています。違うのは Java の拡散です。

 

 上図の左側が当時の我々のモデル、右側がその後の発展系の J2EE のモデルです。
これ以降の論議は、勿論ホメオトシスが一番の動機なのですが、もう一方で、来るべきクラウド時代の企業システム(プライベート・クラウド)設計の参考になることを意図しています。 温故知新ですね。
左右の比較も交えながら、上図左のモデルをベースに、順番を追って、少し解説したいと思います。
① 左右とも、ユーザーI/F、新規アプリケーション、既存システムやマスターDBの3層構造である.
Java 導入の当初の目的は、Windowsクライアントからのドミノ倒しの脅威を取り除くためであった.
  具体的には、クライアントにJava Appletを飛ばす事により、RMI やIIOPなどのクライアント側か
  らサバーへのプロトコル多様性をヘッジすることにした.これはMicrosoftにJavaを自由に改変・ドミネ  ートされてしまうと水泡に帰する可能性はあったが、幸いにもSun との協業で頑張れそうであった.
③ 肝は真ん中の2層目サーバー層である.ここでの特色は、クライアント制御とLotus ScriptのOAアプリ
  ケーションを実装するNotes Server と、IAとCORBA実装Open Object Server のハイブリッド
  実装である。
このモデルの肝である③の価値を語る上で、少し当時の時代背景を見てみましょう。

 企業IT 部門の常識であったメーンフレーム上に集中型でアプリケーションを実装するモデルの限界は、IT 外の事業部門の猛烈なダウンサイジング(分散処理)の動機・衝動として十分理解され、本当はもう後戻りの出来ないものでした。経営トップからのプレッシャーも徐々に厳しくなってきていました。
米国では、CEOからダウンサイジングをやれ!と言われて、NO と答えたCIO の首がどんどん飛んでいきました。欧米のCIO の寿命は1.5 年持たないのが常識でした。
小生はそれでも、CMOSやSysplex の成功体験から、何か付加価値を投入できれば、十分に企業システムの中心として既存システムが主流を歩めるものと考えていました。否、歩み続けることを守らなければならないと決心していました。
ある日、某大手製鉄メーカーの IT 部門の方から、(本当に)暗い深刻な面持ちで、何億ステップの現行システムをどうやったらダウンサイジング(分散化)出来るか、というミーティングに呼び出されて、事の深刻さを改めて噛みしめていました。回りをグルっと取り囲まれた状態での会議でした。暗かった。
このような、ある意味では大きな悲劇が、全国津々浦々で起こっていたのです。
小生達、当時のSEにとっては、お客様のシステムは自分自身の作品でもあり、IT 部門の苦渋は深く共有していました。
この時の IT部門の課題は、IT 技術の範疇で見れば、ビジネス柔軟性追求のための分散処理、への対応です。でも大変困難なテーマでした。
 ということで、当時の新しく勃興するプラットフォーム屋のマインドは、口では分散処理を声高に叫びながらも、メーンフレーム集中型のアーキテクチャ・コピーを UNIX やWindows 上に実装することに夢中だったわけです。これがダウンサイジングの旗になった。確かに安くはなったので、貧乏人のメーンフレームと呼ばれたりもしましたが、このエネルギーとビジネスへのインパクトはもう止めようの無いものでした。とにかく数が出ればBoxの価格は下がるわけです。米国では、お客様CIOの頸が飛ぶ毎にUNIX 機の導入が増えていきました。
一方で、いつのまにか、、ビジネス系分散処理の要件はどうでもよくなっていったのです。
 こうして、本来の企業ITとしてのエンタープライズ・システム実現への道程は道草を食ったわけです。
また、本来 IT 部門自己責任のシステム化の努力も、このエントロピーの法則のような猛烈なITの拡散化には抗しがたく、SIerヘの丸投げという無責任体制の拡大を当たり前のように定着させて行きました。
 このような、安くなればいい、それが流れとして必然だ、という IT コモディティ化は当たり前という物理学エントロピーの法則のような考え方は、Nicholas Carrの ”IT Doesn't Matter”という喝破も経て拡大し、これからのクラウド・コンピューティングにもその主たるイデオロギーとして増殖していっています。
小生はこの考え方には与しません。断固、知の世界の輪廻転生を訴求していきます。
 
 さて、我々のモデルの価値は③にありました。企業システムにおける統合の訴求と実現手段です。
小生にとっての統合は、まさに SE 的な発想で、IA (Intelligent Agent)をのりしろにして、PCクライアントの統合、グループウェアのOAシステムの統合、勃興するWebアプリの統合、そして何よりも企業基幹系新旧アプリケーションの統合でした。このような多様な統合化によってこそ、ビジネスの分散化が可能だと考えていました。事実、河野紀昭さんはIA (Intelligent Agent)を駆使した面白いビジネス・プロセス統合案を色々考え出していました。今でいうBPELのようなものですね。彼の頭脳は大変なものです。

2層めサーバーの主題はPersistence なアプリケーション実行環境へ

 ところが Larry Loucks の主題は少し違っていました。ソフトウェア事業部の主アーキテクトとして当然のことですが、次世代のプリケーション実行環境構築が彼の最大の関心事でした。そして統合でした。
統合の技術的な主題は集中処理ではなく分散処理ですよね。ということで、新時代の企業基幹系アプリケーション実行環境として、CORBAモデルを真っ向から実装したのが Open Object Serverでした。
このOOモデル、即ちCORBAのプラットフォーム設計や実装はとてもフロントのSEの手に負えるものではありませんでした。これは米IBMのLarry Loucksとその一統さんがド~ンと真ん中に配したものです。
 ここで温故知新として何を言いたいかは、企業システム・アプリケーション実行環境である新プラットフォーム構築における、”Persistence”性への拘りです。これがクラウド環境ではどうなるのでしょうか。
Persistence性が無ければ、このモデルの発展系であるJ2EEの成功もなかったでしょう。如何に悪名が高くても、(Open Object Server の後継である)EJBの無いJ2EEは存在し得なかったのです。このホメオトシス・スレッドの論考として、クラウド・モデルでのBASE理論への疑問を後ほど展開したいと思っています。
 このモデルでは疎結合と言いながらメッセージング、MQ が登場しませんが、これは後ほどWS-* やSOAのところで論じたいと思います。いずれにしてもBASE理論やそれに感化された主張には既に異議が多いようです。MQの誕生から共に歩み、日本の企業システムにメッセージングの価値を育んできた日本IBMのDEさんに、MQ和尚と自他共に称せられる東郷巌さんがいますが、彼が中途半端なBASE理論を振りかざすSE に烈火のごとく怒ったという噂を聞きます。 さもありなんです。

 さて、このモデルは IBM社内では大きな評価を受けました。というのは、背景に、日本IBMがこの年、1996年ですね、Lotus Notesを100万本売り上げたからです。  しかしこの成功には我々の3層モデルは(精神的なバックボーンにはなったとは思いますが)直接の貢献はありませんでした。これはビジネス・リーダーシップの典型的な成功例で、北城さんと木村ソフトウェア事業部長(当時)のリーダーシップだった。ところが米IBMからは戦略性と一体化したビジネスの成功事例として受け取られたようでした。
もちろんこの成功は、Lotus Notes のグループウェアがお客様に受け入れられ、それを可能にした関DEのような日本IBMの推進グループの強いリーダーシップがあった事によります。
 翌1997年の年初に、IBM会長(当時)のLouis Gerstner  が日本IBMを訪れた時には、”日本IBMはNetwork Computing で世界のリーダーだ!”と言ってくれました。議事録も残っています。またその後来日したJohn Tohmpson も自ら近づいてきてエール交換してくれました。Larry Loucksのオフィスからも”やったね!”という祝福ももらいました。何よりも、前回掲載しましたように Notes Domino がネットワーク・コンピューティングのアーキテクチャと共に戦略製品として発表されました。
 半ば錯覚のような技術ストラテジーの成功を背景に、このネットワーク・コンピューティングのモデルは、ncc, ebAF, AFFE, AFeb(Application Framework for e-business) として発展していきました。

 1997年春、ビル・ゲーツは満を持して Windows NT の発表を行いました。
日本での発表に先立ち、マスコミの方々にお集まり頂き、マイクロソフト何するものぞ、というカウンター・プレス・ミーティングを行い、小生が”独演会”を持ちました。
内容は、ここで述べてきた内容を記者の方々に滔々と喋ったわけですが、不評でした。
全く理解されなかったようです。
という事で、当時ソフトウェア事業部でこの件の責任者をされていた、さる女性からは、以後、全く相手にされなくなってしまいました。
いずれにしても、この時のビル・ゲーツの野望は散々に打ちのめされました。

マイクロソフト絡みの話をもう一つ。
1996年のオースティン訪問のその足で、小生達はIBMメーンフレムの総本山、ポキプシーに回りました。そしてMCL((Myers Corners Lab.)で元TSELアサインメントだったClarkさんのミーティング要請を受けました。仰天したことに、真剣にS/390上にWindowsを載せるべきか否かの質問を受けました。
小生は、Larry Loucksとのミーティングの成功感もあって、明確にNo.と意見表明しました。
あの時 強くYes と主張していたら、その後の展開はどうなっていたのでしょうか。

 1997年年初に、IBMのメーンフレーム・グループからから CB(Component Broker) という強烈な製品が出てきました。Open Object Server の具体的な製品第一号でした。
小生は前のブログで書きましたように、S/390 MDF いうメッセージ・ベースのハブも別に推進していましたが、これをCBと補完的なプロポーザルに構成し、G3 タスクというものをシステム研究所主導のもと、日本IBM内でスタートさせていました。これもSysplexの乗りで大々的にプロモーションしました。
 これが後に、某自動車メーカーの新基幹システムとして現実化していくのですが、具体化する時には小生は既に蚊帳の外の存在でした。実は第2回目の明示的な首になっていて、1997年の暮れにシステム研究所を追われていたのです。そしてそのシステム研究所も一年のうちに消えてしまいました。

サラリーマンの心得.上役とはきちんとコミュニケーションを取ること

 小生はというと、そのころは、日本IBM六本木本社ビル21階の、某元日本IBM会長の重役室から、富士山の遠景を眺めていました。重役室に住んでいたのはこれ一回きりで、勿論仮住まいです。
ルーム・シェアリングという按配で、其の方が来社される月に何回かは、部屋に出てきてはいけないという決まりでした。机の鍵も渡してくれませんでした。屑かごが妙に立派で愛着が持てました。これだけは自分のものだと、後にこの部屋を出た後も大切に持って回りました。
出雲大社の正門は3本柱で、真ん中に柱があるそうです。出てくるな、という幽閉の意味があるようですが、最近発掘された纒向遺跡の神殿跡のようなものの扉にも、真ん中に柱があるそうです。
小生は卑弥呼が幽閉された痕だと考えています。
小生も、何故自分がそこにいるのかはあまり理解出来ていませんでしたが、神妙に座っていました。
困ったのは、北城さんはともかく、人事の人などが時々訪ねて来て、ニヤっと笑うのです。時には大声で笑いこける人達もいました。さぞ珍妙だったのでしょうね。。
一方で、”この部屋があてがわれたのは北城さんの大変なご厚意なのですよ”、と、当時の社長室長さんに繰り返し告げられました。北城さんが真剣に部下の部屋探しなんかされたのは今回が初めてだと。
という事で、脱走はしませんでした。しかし一番のお宝を取り上げられた悲しみは本当に大きかった。
 全くの晴天の霹靂で、首の理由を誰も説明してくれないので、何故こんな事になったのかということに気付くのに時間がかかりました。突然、中途で捩じ切られた技術者の夢がいつまでも残っていました。
首になった理由は、どうも大変単純なのではないかと今でも想っています。例の言語障害です。
当時、SE の大統合組織結成の議論が進んでいて、どうもそのとばっちりを受けたようです。
小生は、芯からビル・ゲーツをやっつける事に熱中していて、日本IBM内のそんな組織論なんかには全く興味がなかったのです。本音を言えば、バカだな~と思っていました。しかし、そうは言っても、それ相応の技術集団を保持することが小生の夢を実現するためには必須でした。特に海外Labと密接に連携できる機動部隊として、システム研究所のスキームを一番大事に、誇りに思っていました。
 ということで、先ず、システム研究所は大統合には参加しない、と皆さんに申し上げました。
でも、皆さんはその重要さをナ~ンニモ解っていなかったですね。今も昔も解っていない。
その後、いろんな人選の末に、大統合のリーダーが決まったようなのですが、あるミーティングの席上で、其の方に向かって、”私は貴方にはレポートしない”と、ヒョイっと、告げたのです。
本当に、ヒョイっと言ったのです。一言だけ。 さすがに絶句しておられましたね。
其の人が嫌いだったわけではありません。
小生は、随分前から、もしSE全体のボスを押すなら、H.H さんしかいない、と心に決めていました。
SE 統合の組織論は昔からあって、紆余曲折の末、H.Hさんは子会社に出向され、丁度帰ってきておられたわけです。失礼ですが、其の時点ではもうH.Hさんの目は無かったのでしょうが、小生の頭か心の中では依然としてそうだったのです。心模様ですね。
で、”私は貴方にはレポートしない”、の一言になりました。
小生自慢のピストル会話です。
すぐに、まずいな、とは感じたのですが、最近のNHK大河ドラマの上杉景勝の体で、黙っていました。
普段は恥ずかしいくらいのお喋りなのですが、肝心な会話ではこうなのです。相手に察して貰うしかすべがありません。そして、落語のような後日談が始まりました。結構面白い変な話しが続くのですよ。
H.Hさんご本人もご存じないでしょうね、今でも。..そんなアホな会話が転がっていたなんて。
其のうちに、こんなあんな風景を纏めて、”会社で首になる方法”なんてスレッドでも書いてみます。

幽閉されていた(?)重役室も結構役に立ったことはあります。
当時のIBM科学アデミー会長のBob Guernsey が日本にやってきた時は役にたちました。
りっぱな部屋と富士山の遠景を見て感心していました。感心する背景には他に理由があったのです。小生の役職名です。Bob Guernsey にはこの後色々お世話になったので、この印象は強いです。
実は、小生に誰も役職名を付けてくれないので、しょうがないので自分で作っていました。
”Executive Technical Advisor”というものです。勝手に自分で作って、会社を辞めた今も使っています。
その前に”Executive Technical Assistant”という名称を人事に申告したのですが、数日たって日本の人事は、IBM HQ人事にだめだと却下されたと言うのです。
”Executive Technical Assistant”というのはIBM CEOのスタッフ役職名で、全IBMで一人しかいないのだと。
そこで、Advisorの方がAssistant より偉いだろうと思って、この名称にしたのです。
今ではIBM社内で"Executive" という名称を持っているスタッフ連中はインフレ状態ですが、当時は貴重だったのです。いわんや、Executive Technical Advisor です。ミーティングに出合わせた向こうのDirector が思わず足下をそろえて敬礼のような仕草をされた事もありました。
ま、システム研究所は無くしはしましたが、この名称のお陰で海外Labとはかなりうまく渡り合えました。
続く10年も、技術屋として結構楽しくマイウエイで過ごせた事を感謝しています。
そうそう、一度だけ、くだんの”Executive Technical Assistant”のプレゼンを拝聴したことがありますが、
凄かったですね。さすがでした。比較するのもおこがましいのですが、北城さん、大歳さん、あまりお役に立てずで申し訳ございませんでした。お許しください。

このスレッドはもう少し続けます。
カバーするテーマは、今のところ次のようなものを考えています。

- CBとEJBでJ2EEの80%を作ったのはDon Furgeson. IBM WebSphere の誕生
- Web Serviceの乱入, WS-*への拡大、J2EEの肥大化とPOJOやRESTへの回帰
- Web Service とグリッドとの関係と軋轢、そしてクラウドでの混乱
- BASEをACIDの一般型として論ずるのは無理
- クラウドが混乱する背景. Web-WOA族、Web-SOA族、グリッド族、仮想化族の絡まり
- クラウド時代には、もう一度、プラットフォームと言語(アプリ)との関係の再構成が必須
- 温故知新、スタート時点でのリーダーシップ、そして動機と動機付けが肝要




SysplexからJ2EEへの経緯から想うこと.クラウド時代のJavaの行方 -2

2009年12月06日 記述 


 クラウド時代という未来を軸に据えて、小生の経験したIT技術の変遷を辿りながら、
技術は甦る.不屈の根性か?素材の選択か?” を続けたいと思います。
実は、小生の興味が纒向遺跡のニュースに向いてしまい、6カ月近く放り出していた”歴史への回帰”のスレッドを埋める準備に忙しくなっていて、このJavaのテーマを素早く(?)収めたいと思のです。が、重要なのでやはり長くなりそうです。
ここでは第2回として手短に押さえようと思います。後、引き続きテーマの内容を続ける予定です。
 それにしても IT って難しいですよね。。。実感です。
何をいまさら、(小難しい文章を書きなぐる)お前に言われたくないよ!という声が聞こえてきます。
中島流理屈が苦手な方はこのパラグラフをスキップしてください

何故、クラウド時代のJavaの行方、なのか

 このスレッドはホメオトシス、つまり自惚れの自慢話で綴る鎮魂歌なのですが、一方で、温故知新の素材にもなればと綴っています。呆けが進行しないうちに早くダンプしておけ、という声も頂いています。
実は小生は、必ず書いて残さなければ回りが許さない、出雲神話のような物語を秘めているのですが、これは、それを先送りにするための時間稼ぎではありません。それはそれでいつか書きます。
このスレッドでは小生の見たJ2EE誕生の背景や動機を綴っています。そのJ2EEの背景や動機が、これからのクラウド時代へ入って行く上で助けになるのか邪魔になるのか、..そんな事を考えています。
 さて、IT は難しい。多面的である。 という事で、途中でドレィファスなどの哲学的な視点を持ち込もうとしたのですが、伝え聞くところによると不評のようでした。でも、やはりそれも必要と考えます。
①人間の知的世界と行動、②計算機の情報処理系、そして③システム開発という①から②への不可逆的なメタ知的変換
小生はこのラマンチャ通信全体でこの3つの絡まり具合を揺さぶっているのですが、先は遠いですね。
要は③のシステム開発が、楽しい筈のメタ知的作業になっていず、3K、4Kの苦行になっていること。
だから変換先の②であるプラットフォームをもっと豊かにするのが、③の知的作業を楽しく、楽にする上で必須なのだ、と、主張しています。ここまでが小生の一番目の主張です。
さらに、③のシステム開発が不可逆的になっているのが一番の問題なのだとも考えています。
外部の要件の変化に対応できない。ここからが二番目の主張です。
人間系との大きなループでの試行錯誤、可逆性が無い。企業システムの本質なのかもしれません。
システム開発手法としてのカット&トライは、③の中での話です。③の全体としては手戻りを減らす事が一番のテーマとなっています。出来上がったシステムを頻繁にスクラッチ&ビルドなど出来ない。
しかし現実にはこの①②③は頻繁にループしているわけですね。メンテナンスと運用努力として。
で小生は、eCloud研究会でのメーンテーマ、チェンジ&レジリエンスでこの課題に挑戦しています。
この①②③の不可逆性を、ダーウィン的な個とその頻繁なバージョニングのシステム観で解いてみようとしています。不可逆ではあるけれども種(バージョン)として変化に適応可能にするわけです。
具体的にはプライベート・クラウドのインフラを活用して、その安定したプレイ・グラウンド上に企業アプリケーションをソフトウェア(仮想、ここがみそ)アプライアンス化して実装します。PaaSも活用します。
ここでJ2EE上のアプリケーションが、J2EEプラットフォーム密結合であるという課題が絡んできます。
次が三番目の主張です。
 ツールの世界はシステムよりもっと柔軟です。ツールは①と②のコラボレーションの世界です。
さらにハッカーの世界観には、この①②③の境界は無いわけですが、インターネット、Web 2.0の世界は可逆的な世界への方向性を持っているわけです。今のサ-チ・エンジンもツール世界にありまです。
クラウドを旗印にする人達は、この流れに沿って、一気に企業システムの課題も料理できると勢いづいています。少々自惚れが過ぎているように思います。気持ちは解らないではありませんが、BASE理論がそんなには役に立たないと考えています。トランザクションとトランザクショナルの話を混ぜることのメリットが考えつかない。ACIDは計算機の無謬性への担保なのです。だからNFRの議論が大切なのです。これを外したら逆にクラウド時代の企業基幹システムは組めないのではないか。
システム化という一つのボリューム、スライダーのようなものがあって、左に絞り込めばACIDになり、右に回せばBASEになるという論理には相当無理があります。このような統一理論は時期早尚だと思います。いみじくも情報処理学会誌であげられている、ニュートン力学と量子力学の比喩がいい例です。
一つのスライダーで、現実システムが連続的にニュートン力学から量子力学的な挙動に移れば、どうマネージするのか。これは違うディメンジョンの測度だと思います。違うボリューム端子なのです。
この辺はWS-* 誕生のところで、当時の開発の動機も含めてもう少し論議したいと思います。
小生が少々苛立っているのは、このような考え方が広まれば、現場のITエンジニアがもっと不幸になると危惧するからです。現実にもうそのような例が出てきているようです。



SysplexからJ2EEへの経緯から想うこと.クラウド時代のJavaの行方 -1

2009年11月20日 記述 


 クラウド時代という未来を軸に据えて、小生の経験したIT技術の変遷を辿りながら、
技術は甦る.不屈の根性か?素材の選択か?” を続けたいと思います。ホメオトシスです。
 前回はSysplexの想い出と絡めて、クラウド時代のDBを展望しました。勿論DB論ではイン・メモリーやKVSのMapReduceなどとのコンビネーションとなるわけですが、ベースはやはりRDBになるのでしょう。
それにしても、クラウドDBがKVSで、トランザクション処理がACIDからBASEだ、という飛び方には正直ついていけないですね。ダウンサイジングの時のAny to Any のクライアント・サーバー論に似た後付けの理論が危ういです。確かにボトムアップな技術を適時に理論で振いながら前に進めるのは重要ですが、ITの輪廻転生は現場のエネルギーが生み出す夢や課題解決への情熱に裏打ちされているものです。特にBASEの話はWS-*(Web Service astah)前夜の議論に似て、一方でGoogleのダイナミズムを台無しにする可能性があります。そのうちにクラウド論とSOAがゴチャゴチャになりそうですね。
SOAとクラウドについては、”SOAサービスのクラウド・サービス化がSOA実現の切り札”で、小生の関わった経験から論述しましたように、互いに補完的なものだと考えています。
BASEについてはWS-* 前夜での小生の経験やRESTの風景を踏まえて改めて論考したいと思います。
ここでは先ずクラウド時代に於けるJavaについてホメオトシスの路線で少し論じてみました。

クラウド時代のJavaの行方.言語とプラットフォームのもつれが課題

 Googleが新しくオープンソースのプログラミング言語「Go」を発表しました。実験だという事です。
一方で、OracleがSunを買収、Javaを手に入れる事になった今、業界のJavaを見る目が変わるかもしれません。Javaは生い立ちからJVMというプラットフォーム特性を持った言語ですが、クラウドやモバイルという新しいプラットフォームとの関わりあいの中でどう変化していくのでしょうか。
Javaは並行処理の限界をマイクロプロセッサーのマルチスレッド処理で図らずも露呈してしまいました。消費するメモリー量もフレームワークの重層で暴発し、容量や発熱でサーバー設計にまで大きなインパクトを与えています。
何よりも、Javaがプラットフォームと絡み合い、あまりにも複雑になりすぎている感があります。
1996年春ごろから、ネットワーク・コンピューティングの旗のもと、企業システムでのJava、J2EEの採用を日本のお客様に熱心に説きまくった小生としては、何かを申し上げる責任を強く感じています。
”まつもとゆきひろ”さんのRubyが評判ですが、ここではJavaの言語能力よりもプラットフォームとの絡まり合いの背景について見てみたいと思います。J2EE、今はJEEですか、ですね。
企業システムの要となったJ2EE誕生の背景を語る前に、当時のIT業界の風景と小生自身のホメオトシスから説き起こしたいと思います。話が長くなると思います。なかなかJavaに辿り着けませんが。。。
長いので、別けて書くことにしました。適当にスキップしてください。

小生の何度めかのQuest は、Bill Gatesの企業システム制覇の野望への反発から出発

 Sysplexの思い出 のところで、我々SEがボトムアップの情熱で企業システムに影響をを与えた事を述べました。しかしその成功の喜びを分かち合う間もなく、このプロジェクト・チームの風景が”夏草の賦”となってしまったことを、やんわりと書きました。個性と個性が激しくぶつかり合って、核分裂を起こしてしまったのです。小生は全体のマネージメントの任にあったので、この件の一番の責任者なのですが、実を言えば心は既にプラットフォーム戦争のSysplexから離れ、ソフトウェア競合に移ってしまっていました。 Bill Gatesが全ての企業システムをWindowsで制覇する野望を見せ始めていたからです。これに対抗しなければならない。という事で、この核分裂事件の責任は、人事的な面もありますがSysplexへの関心を欠いてしまった小生にあり、遅まきながら、当時辛い思いをされた諸氏には深くお詫びいたします。
 UNIXで仕掛けられたダウンサイジングのサーバー・プラットフォーム戦争は、CMOS & Sysplexという形でなんとか凌いだのですが、さらなる強敵が牙をむいてきたわけです。
当時は未だソフトウェア業界のNo.1はIBMでしたが、パソコンOS戦争でOS2はWindowsに大敗していました。
企業システムが2層クライアント・サーバーを是としたとき、アプリケーションが乗るクライアントOSをMicrosoftに制覇されてしまった以上、バックエンドのサーバー・プラットフォームの全面的敗退も時間の問題だと考えられました。オセロ・ゲームですね。もうSysplexどころではなかったわけです。
当時、企業基幹システムをUNIXでやることすら大変だったのが、Bill GatesはWindowsにしてしまえというわけです。Windows NTですね。GatesはDEC VMSのアーキテクトを招聘し夢を膨らませていました。
 冗談じゃない。企業システムを何と考えているのか、と、再び怒りが頭のテッペンに吹きあげました。
システム技術という200人以上を擁する日本IBM HQ-SEサポート部隊のマネージャを(上役との喧嘩で)一年で首になっていた小生は、Sysplexの成功とともに、SEのシステム創りの夢をシステム研究所という形で半ば実現しつつありました。一時期の古巣のTSEL撤収も担当し、優秀な若手メンバーを多く手に入れ、Sysplexのサービス・ビジネスを原資にして、本気でBill Gatesをやっつけるつもりになっていました。今にして思えば、ま、やっぱり真正の ドン・キホーテですね。関西弁で表現すれば、アホやな~..です。振り返ってみれば、あの時も、やっぱり誰にも理解されていなかったのでしょうね。。。

インテリジェント・エージェントと 3層ネットワーク・コンピューティングの構想

 米IBMも対Microsoft戦争で必死になっていました。UNIXとの競合はPOWERとDCE/AIXというプラットフォームでなんとか対応した上で、OO(Object Oriented)、オブジェクト指向技術に全力を投入していました。クライアントでのTaligentやAppleとのOpenDoc, そしてOMG対応のSOM/DSOMです。IT戦争の戦略拠点が、プラットフォーム構築からソフトウェア・デベロッパーの取り込みに懸っていました。しかしこの大器晩成型の技術で挑んだIBMは、クライアント戦争ではMicrosoftに既に敗れ去っていたのです。
 一方で、小生は企業システム革新の切り札として、IA (Intelligent Agent)に血道をあげていました。Agentという言葉の方が一般的ですが、IBMではシステム管理系のAgentと区別するために敢えてIntelligentの言葉をかぶせていました。IAは、TSEL時代にAPHQにアサイメントで日本にきていた親友のDon GilbertがMCLに戻ってそのエンジン開発を統率していました。日本IBM 大和研究所が開発していたJava系 Agentとは別物です。推論エンジンを持った、ドン(Don?)と構えた大きなサブ・システムでした。
 当時、Agent論が結構持て囃されました。理由は簡単で、インターネットの勃興です。インターネットにはAgent的なものが必須だとの考えが受け入れられました。
日々暴発するインターネットの広大な世界に企業システムが対応するためには、全く新しいフレームワークが必要だと考えていました。コテコテの企業システムと一般の(エンド)ユーザの間に割って入って、EOU(Ease of Use)で繋ぐための、臨機応変な自律型のアシストの仕組みです。ま、小生達のアプローチはメーンフレーマ的な発想だったわけです。
しかしクライアント・サーバーで始まったユーザー指向のEUI (End User Interface,昨今はUser Experience) は結果的にはユーザ自身がプレイするWeb Browserが徹底的に定着し、Web 2.0としてユーザー主導・参画型のフレームワークとして益々発展していくことになります。
 さて、2層クライアント・サーバーのままではMicrosoftの勢いには勝てない。いずれ全てを無くしてしまう。 苦し紛れの小生の発想は3層化の発想でした。当時3層クライアント・サーバーという言葉はありましたがそれとは全く別で、この3層化はシステムの疎結合化と統合化を狙ったものでした。
何からの疎結合化と言えばWindows クライアントの OLE/COM/DCOM からの疎結合化,そして逆にWindowsクライアントとバックエンドの既存メーンフレームやAS/400との間接的な統合を考えました。
これが単なるメーカーの勝手なご都合主義のままであればこの考えは当然野たれ死にしたのでしょうが、当時の IT部門が直面していた、既存(メーンフレーム)システムとダウンサイジングものとの統合に実質的な価値がありました。
そして結果的には、インターネットの普及に歩調を合わせて、これが後にJ2EEに育っていきました。
 一方で、システムの疎結合/統合化の製品素材として、小生はメッセージ・ベースのシステム構成をとる MDF(Message Driven Feature) / 390を強く推進していました。Hub & Spokeの初期モデルです。
しかしこれは当然のことながら一般解には成りえなかった。当時としてはS/390は統合役のためだけには大きすぎたわけです。そしてそれ以上に、新しいアプリケーションの実行環境が必要でした。
クライアントに実行環境のITヘゲモニーが渡ってしまえば企業システムも一気にMicrosoft の天下になったのしょう。しかし事実上、クライアント・アプリケーションだけで企業システムは組めなかった。GUI、 即ち Rich Client の範囲のアプリケーションが限界でした。
一方で、メーンフレーム上に新しいアプリケーションを構築し続けるというメッセージは当時としては無理がありました。結局、2層目に新規アプリケーションを実装する3層モデルが必須だったのです。
 当時の日本ITの風景は未だインターネットは名ばかりで、グループウェアが勃興しつつありました。
そこで小生はこの2層目サーバー・プラットフォームのベースにNotesサーバーを配置しました。
さらにweb I/Fの強化やIA(Intelligent Agent)をアドオンして3層モデルを構想しました。
ホメオトシスは続きます。。。

IBM ソフトウェア事業総帥のJohn Tohmpson Sr.VP への提言

 ちょうどそのころに、IBM ソフトウェア事業 総帥のJohn Tohmpson Sr.VP の日本IBM訪問がありました。そして急遽 John Tohmpsonへの日本IBMのリクワイアメント・ミーティングがセットされました。
1996年2月15日の事です。
小生はくだんの構想を3層ネットワーク・コンピューティング・モデルとして彼にぶつけました。
John Tohmpsonはのっけから、" どうせDBCS (Double Bytes Code Support、漢字)のことだろうが”、と、こちらをこ馬鹿にした漢字(間違い、感じ)でしたが、フォイルを見せる内に表情が変わってきました。
このままではIBMは全部アカンのと違いますか、というのを、下図のドミノ倒しの図で迫りました。
しかし、彼はそれを解く小生の3層の構想には頑として首を縦に振りませんでした。2層直接結合のMicrosoft に性能で勝てはしないと言うのです。彼はカナダIBMの元SEでしたからよく解っていました。
そこで小生はJohn Tohmpsonに、このモデルは非同期なのだと告げました。疎結合ですね。
そして、Intelligent Agentによる 統合の付加価値をぶちました。すると彼はいきなり納得したのです。
ストンっと落ちた感じでした。
この非同期のキーワードは、前日に河野紀昭さんとのディスカッションで思いついたものでした。
 想うにJohn Tohmpsonもかなり窮していたに違いありません。彼は、36億ドル程度だったと思いますが、Microsoftと戦うのにグループウェアのLotusを大金を叩いて買収していました。一方で、海外では1996年ごろにはインターネットが普及しはじめ、大金をドブに捨てたといって非難され始めていました。それが何と目の前にLotus Notesを主人公にした新時代の企業モデルが転がり込んできたのです。
ミーティングの後、John Tohmpsonが資料を大事そうに鞄にいれ、その鞄を何度も胸に抱えなおして小生にthanksを連発しておられる姿は、小生の数あるホメオトシスの中でも忘れえない情景です。
彼は早速、ソフトウェア事業部門のテクニカル・ストラテジー担当を訪ねるよう、小生に指示されました。
其の人は IBM Fellow & VP of SWG Technical Strategy のLarry Loucksという大変な変人でした。
Larry Loucksを訪問し、IBMのJava戦略に出会い、3層モデルを確認し合い、そしてそれがJ2EEに変貌していく経緯については、また改めて記述いたします。
その後ネットワーク・コンピューティングが成功し、John TohmpsonはIBM副会長、No.2になりました。

 
左図はJohn Tohmpsonに示したDomino倒しの図    右はLarry Loucksとのミーティング後、一年後に
                                IBM SWGから出てきたネットワーク・コンピュー
                                ティングのアーキテクチャ図.
                                驚いた事に、Dominoの製品名で出てきました。
                                Webの動画ではこけたドミノが起き上ってくる
                                逆襲ドミノになっていました。

突然ですが、小生の英語力と言語能力の課題について

 余段ですが、会議には、北城社長(当時)も出席されていました。
自慢にはならないのですが、小生の英語は無茶苦茶下手なのです。で、John Tohmpsonとの白熱(?)の議論が展開されるにつけ、なんと北城さんが途中から小生の通訳を始められました
まぁぁ、社長さんを通訳に使った社員は、サラリーマン社会ではそんなにはいないと思います。
 実は小生は院生の時代に英会話にかなり投資しました。英語で会話する友人もいたのですが、それがIBMに入ると全くダメになってしまいました。社外の英語の名人(プロの通訳の方)の特訓コースで、 ”あんたは味噌汁を食っているからダメなんだ”、と引導を渡されてしまいました。
味噌汁に拘っていたわけではありませんが、当時、確かに司馬遼太郎さんの高杉晋作を描いた通詞論に嵌まってはいました。つまり語学力を甘くみ、かつ右脳的なアプローチが多かったのです。
 若手・中堅のIBM海外ツアーに参加した時には、講演の途中で突然外人講師の横の黒板に近づき、図を勝手に書き加え、自分が描いた図を指して"Yes? No?" と講師に質問すると、講師も一言、”No.”、と答えたやりとりが、たった3語で成立した会話としてツアーの仲間で評判になりました。
また、同じツアーの懇親会で、当時IBMワトソン研究所に勤めておられた江崎博士に、”外資系に勤める上で日本人として悩まれたことはありませんか?”と質問して、江崎博士に、"だったら会社を辞めればいい” と冷たく突き放された思い出もあります。
ツアー・リーダーをされていた苅部さんから、”中島さんよ、あなたの英語は下手だけれど、日本語の方がもっと下手だよ”っと諭されたこともあります。
 入社してすぐの若手のころから、社内外でお喋りすることが多かったのですが、IHIの部長さんから、 ”あなたはガーッとかダーッとかの、幼児語が多いですね” との感想を頂いたことがあります。
長くご一緒させて頂いた営業の荒西さんからは、営業所のミーティングで小生が一くさりの講演を終えた後で、”中ちゃんの言うことは、ナ~んにも解らん。”と呟かれてしまいました。それまでの3年間、小生の講演を神妙に聞いていた回りの連中が、それを聞くなり一斉に、”え~!やっぱりそうなんや!”と、叫びあい、それ以降の小生の高説に居眠りを決め込むようになりました。
 IBMでは15年間以上アーキテクチャ・コースをぶっていましたが、長時間、理解の範囲を超えた小生の独演会に付き合い耐えて頂いた多くの諸氏に改めてお礼とお詫びを申し上げます。
ついでと言ってはなんですが、数多あるお客様コールでの独演会の件もお許しください。
 一方で、年を経るにつけ、ボチボチと英語が喋れるようになってきました。それとともに、お喋りがひつこくなってきたのも自覚しています。くどくなった。
クラウドのスレッドで書きましたように、旧知のIBM FellowのGeorge GalambosにSOAの提言を行ったときには、よく真意が通じました。其の時に彼はいいました。”あなたの言う事は大変ロジカルである”、と。
どうも年を取るにつれ脳が変化してきたみたいです。
これまでは、幼児脳だったのかしら。。。



技術は甦る.不屈の根性か?素材の選択か?時代を魁るシステム創り

2009年11月06日 記述 ”DB2 pureScaleへの希望”


”昔々、日本IBMにもあった火事場の馬鹿力.今回はどうかな。。。” から続きます


 今、IT業界は、クラウド・コンピューティングという大きな変革期を迎えているように見えます。
この変革期と、あなたはどのように付き合いますか?
これを勝ち馬に育てる人、勝ち馬だと信じて乗る人、勝ち馬をただ傍観者として見送る人.
そして、真っ向から歯向かい叩きつぶしにかかる人。
 ラマンチャの男のつもりの小生は、当然、これに敢然と立ち向かわなければなりません。
という事で、老体にボコボコの錆びた鎧をまとって、世の流れのパブリック・クラウドに噛みつき、プライベート・クラウドの(地方版の微小の)旗をを押し立てて逆らうこととなりました。来たれパンチョ!

ダウンサイジングを超越したSysplex.DB2 pureScaleはクラウドで飛翔できるか

  小生のへそ曲がりは今に始まったことではなく、この40年間のシステム作りは常識外れのものばっかりで、しかし立派に変な技術者を押し通したまま、生き延びてきました。
という事で、小生のIBM在職40年間で手がけたプロジェクトのホボ全てが桁が”ずれて”いるものばかりでした。その中で、ダウンサイジングに真っ向から噛みついたCMOS & Sysplexの経験は最大級の”ずれ”ものでした ダウンサイジングの本流に立ち向かい、並列メーンフレームによる企業システム構築という、当初は世間様の視野の完全に外にあった”ずれた”システム造りに没頭しました。
 1990年後半から、徐々にダウンサイジングのうねりが始まっており、1990年に入ってから、それが日本でも一気に顕在化しつつありました。
未だに許し難い事ですが、(ひつこいようですが許していません)、留学帰りのIBM社内の背信技術者 2人が、このダウンサイジングを自身の勝ち馬と錯覚して、錦旗の如く振りかざして専横を極めました。
技術には強いので、メーンフレーム当然否定の論理で、IBM社内流行迎合派を完全に牛耳ってしまっていました.小生も当初人事的に肩入れしていた人材だったので本当に許せなかった。
 既存の企業システムは不要だというこのダウンサイジングの大波を乗り切るために、小生達は100%のボトムアップで不屈のSEを結集し、IBMの恐竜メーンフレーム磁場を脱出して、マイクロプロセッサーの並列を謳う CMOS & Sysplex を掲げて戦場に乱入しました。
メーンフレーム処理がマイクロプロセッサーで可能な事を説得するのには、並列Sysplexが必須でした。
 当初はマネージャ担当の人間がゼロで、組織をまたいだ100%技術屋だけの暴走でした。
小生と河野文豊さんの無謀コンビでスタートしました。2人とも今は日本IBMを退社しています。
その後、日本IBMのスパコン開発プロジェクトから武藤善八郎さん、榊幹雄さんに帰ってきてもらい、
大内二郎さんを中心とした当時の若手、中堅のSEも参集してくれました。武藤さん、榊さんは、大内さんは日本IBMでも超一級のシステム屋さんで、強力な推進エンジン役を果たされました。
プロジェクトは大成功でした。結果論です。
 成功の要因は、システムの素材が良かったこと、もの狂いに近い多数の優秀な技術者のボトムアップな情熱の結集、そしてマーケット、お客様が選択された結果でした。
長いIBM生活で、お客様製品説明会の席上で、”IBMさんありがとう” という言葉を頂いたのは後にも先にもこれが初めてでした.当時はお客様と問題・課題を心底から共有出来ていたのですね。
日本IBMの暴走に国産メーンフレーマも合流し、日本ではダウンサイジングがブロックされました。
それが、日本だけで永くメーンフレーム王国が続いた所以だと思います。少し反省はしています。
CMOS & Sysplexは、本来、タンデム対抗のトランザクション専用システムとして作られ、米IBMはのっけから恐竜メーンフレームのビジネス・モデルとは全く別に考えていました。しかし前に述べたように、米事業部長の頸が飛び、我々日本IBMの暴走(成功)に彼らも続くことになったのです。
 一方で、日本IBMの成功の陰には大変な苦労がありました。NTT STARという世界初かつ最大のSysplex DB2 を成功させるために、この製品を仕上げるための、河野さんリードの日本IBM手弁当SE 隊の膨大な血の滲むような、献身的な努力がありました。
リーダーの河野さんは超弩級の猛将で、彼が城を守れば絶対落ちない。しかし豊臣秀吉の鳥取城包囲のような惨状も起きかねない迫力がありました。プロジェクトもビジネスも成功しましたが、今の小生の視界に残るのは司馬遼太郎さんの”夏草の賦”の風景です。兵どもが夢のあと。喜びも悲しみも、成功も挫折も、お互いが語り合う事無く消え去っていきました。
 昨年暮れ、これと同じことをもう一度やれ、と、日本IBMの技術系ビジネス・リーダー達にぶつけましたが、小生の提言は彼らの理解の完全な外にありました。逆に袋叩きにあってしまいました。
ビジネス・プランを立てろという事でしたが、そんなもの会議の幾つかを止めればすぐ人がでてきます。
今改めて、DB2 pureScaleを擁したプライベート・クラウドが飛翔できるかどうか、今度は傍観しています

Sysplexとの出会い

 小生が最初にSysplexに出会ったのは1990年、IBM Poughkeepsie のMCL(Myers Corners Lab.)です。
日本IBMでは最初に認識し、技術チームを結成し、そして最初にお客様にご紹介しました。
MCLはIBM メーンフレームOSである MVS の開発拠点で、"The IBM"の冠を頂いたLabでした。
小生はその前年の1989年に、OCO (Object Code Only)の撤廃でIBM CHQ(ご本社)に単身で喧嘩を挑み、敗れはしましたがその見返りとしてIBM開発部門との組織的直接技術交流の権利を獲得していました。その権利を持った組織がSystems Laboratoryとして定義され、日本語名称でSE研究所として設立され、さらに後にシステム研究所と変更しました。(この組織は事情と価値を全く理解できない連中にやがて潰されてしまいました.これが小生のホメオトシスの怒りの根源です)
この技術交流会の一回目でMCLに乗り込んだ時に、Sysplex とCF(Coupling Facility)の技術情報とビジョンに接したのです。
 この年からMCLのボスは Fred Dewald が納まっていました。Fred とはTSELで共に国産メーカーの技術評価を行った旧知の間柄です。彼がアサインメントで日本に3年ほどいた間の社内慰安旅行で、共にビートルズ・ナンバーを歌ったり、ルート66のTV話に打ち解けたりしました。同年生まれです。
 彼がいかにも得意そうに披露してくれたのが、SysplexとCFです。この時のベースはCMOSではなく恐竜メーンフレームで、これが32台繋がるということで、まるで宇宙戦艦の艦隊の威容でした。
特にCFは巨大な鉄の塊(Big Iron)そのもので、確か500年はダウンしないと言っていました。
 1991年に CDC(Coupling Design Council, または Customer Design Council)でデビューした時にはCMOS機をベースに Parallel Sysplex としてスマートに変貌していました。
CDCのチェアーとしてJim Rymarczykがつきました。彼はメーンフレームLPARのアーキテクトで、その後 IBM FellowとしてIBM Virtualizationの技術リーダー、Cloud Architectureの技術リーダーをしています。
CDCには日本IBMから河野さんにメンバーとして入ってもらい、小生はもっぱらエバンジリストとして日本国中のお客様を走り回ることにしました。毎年80回以上のお客様コールをこなしました。
淡路島では男のお喋りはめんどい(カッコワルイ)のですが、しょうがありません。
CDCは日本でも3回開催しましたが、なにしろ一銭の予算も持っていませんでしたので、海外メンバーの招聘費用は当時の蔵取締役製品事業部長に全額払っていただきました。日本の機能要件をアーキテクチャに反映するのに、この方法は大きな効果がありました。この会議での、日ごろ無口な河野さんの、 ”もし日本の銀行がダウンしたら何が起こるか”というドスの効いたプリゼンは、ラボのメンバーの顔が強張る程インパクトがありました。交渉術には英語の上手も重要ですが、要は姿勢ですね。サムライの眼力。
 このCDCでの一つの想い出は、会議後に偶然廊下で出会った北城日本IBM社長(当時)との一時間に及ぶ技術論争です。北城さんとはよく技術論争をやりましたが、廊下に立ったままで一時間もやったのはこれだけです。

未発表製品の発表会

 一連のCMOS & Sysplex 絡みの想い出の中で、強く印象に残っているのが北城さんに出席いただいた1993年の ”未発表製品の発表会” でした。
IBMという会社は未発表製品の一般開示には今も昔もうるさいのですが、あろうことか、現役社長出席の下、マスコミの方々を集めて開発中の製品の発表会をやりました。後にも先にもこれ一回ですね。
会議に前後して、未発表製品の詳細を写真入りで詳しく説明しました。なにしろ当時はメーンフレームをマイクロプロセッサーで作るなんて、とても信じて貰えない時代でしたから、必死に開示しました。
ところがこれには後日談があって、くだんの資料を持って日立の技術屋さんがIBM Poughkeepsieを訪ねて質問したという事件が(噂さ)起こりました。
さあ、大変です。ダウンサイジング以前でしたら小生達の首はたちどころにすっ飛んでいたんでしょうが、幸いなことに何のお咎めもありませんでした。当方にも当たり前だろうという勢いはありましたが。
その一年後の1994年4月に製品の正式発表を行いましたが、場所を当時のSEの総本山である幕張事業所に実機を持ち込んだ世界初のお披露目となりました。全て河野さんを中心にSEが仕切りました。

   
   手前がトランザクション・システム        IBM幕張事業所の吹き抜けでデモ
   後方はデータベース・マシン

技術は甦る.不屈の根性か?素材の選択か?
プライベート・クラウドの時代を魁るシステム創りに、一人でも多くの日本の技術屋さんの力と情熱を結集し、最先端のシステム造りに一刻も早く成功し、世界を力強くリードして欲しい思いで一杯です。



昔々、日本IBMにもあった火事場の馬鹿力.今回はどうかな。。。

2009年10月29日 記述 


過去の教訓

 今回のIBM DB2 pureScale, PowerHA pureScaleの発表を受けて、すぐに脳裏に浮かんだのは1990年代初期のCMOS & Sysplex の大変な想い出です。ダウンサイジングの想い出です。
当時と同じような危機的状況を目の当たりにするにつけ、書かざるを得ない気持ちになりました。
今、日本IBMが大変な状況のように見えます。日本IBM-OBとしてはとても不本意です。許せない。
しかしこれは決して日本IBMだけの危機ではありません。日本IBMがIBMの中で沈む時は、必ず日本IT業界の危機が原因だったのですから。そして、日本ユーザ企業の自責・受難の時代だったのです。
きっかけは、前回はダウンサイジングだったのですが、今回は何が原因でしょうか。
どうも、日本IBM起源のSI,システム・インテグレーション事業の踊り場です。崩壊かもしれません。
コモディティ化というコンピュータ技術の個性蔑視のダウンサイジングと共に勃興し、プラットフォーム回帰のクラウド・コンピューティングのメッセージとともに、現行のSIモデルは沈むのでしょうか。
勿論、小生のたわごとなど、一笑にふされる方が多いのでしょうが、しかし、ユーザ企業に必要なのは、なんでも屋ではなく、共にイノベーションを起こすパートナーなのだと思います。
 さて、当時、IBMそして日本IBMの中にも3派の対立がありました。いや4つかな。5つかもしれません。今回も其んな風になるのかもしれません。
IBMは人種混交です。本来の意味ではそれが強みです。でもネガティブの面も多々あります。
技術指向のグループ、営業指向のグループ、マーケッティング優越のグループ、株主最優先(株高志向)のグループ、M&AでIBMに買収されて金銭面でも企業風土的にも馴染めずにIBMを去っていくグループ、そして大半の官僚主義者&傍観者。一番の曲者はヒラメ.技術屋のふりをしたり、出来る管理者のふりをした自己中の自惚れ屋で、火事場泥棒もする面々。。
さてと。。
 先ずその中の一派、日本IBMの一部,そして一部のIBMの一派は、このIBM DB2 pureScale, PowerHA pureScaleを隠そうとするのでしょうね。 自称メーンフレーマ、コテコテの守旧派です。
本当は一番マジメな人達で、よく考え抜くグループです。でも冒険が出来ない。この人達は過去のCMOSの判断では敗れ去りました。技術の真実、そして市場の真実には抗すべくもなかったからです。
当時のIBM(米)メーンフレーム事業部長がそのようでした。水冷メーンフレームの販売に拘り、CMOS & Sysplexに立ちはだかりましたが、すぐに淘汰されてしまいました。残念ながら、メーンフレーム事業をキャッシュ・カウにしようとしたのです。でも、ガースナー前会長がIBMに乗り込んで、そんな連中をあっという間に粛清してしまったのです。そのとばっちりを受けたのが、其の直後のメーンフレーム事業を受け継いだドノフリオです。彼はその前はPOWER事業部長で成功し、勇躍ガースナーの前に現れたのですが、IBMの伝統的な美しいフォイル・プリゼンテーションをガースナーの眼前でお披露目してガースナーの烈火のごとき怒りに晒されたそうです。ガースナーはプロジェクターに近づくなりフォイルをドノフリオに投げつけたという噂です。きれいごとなど聞きたくないと。官僚主義者は去れと。
でも、ドノフォリオは本当は上辺だけのメーンフレーマではなく、根っからのCMOS半導体技術者でしたから、CMOS & Sysplexを強く押し、ガースナーと共に、IBM再生のもう一人の救世主になりました。
CMOS & Sysplexの技術が本物だったし、なんと、日本IBMの技術者達が大きな貢献をしました。
 そんな風にして、当時恐竜とバカにされたIBMメーンフレームが立派な稼ぎ頭で生き残ったのです。
教訓は、ビジネス・リーダー達よ、近欲に嵌まるな、大志を抱け、ですかね。
時代背景を踏まえた戦略性のもと、クラウドという新しい革袋にどのように既存のカテゴリーを変貌・醸成していくのか、逆に楽しみにですよね。
さて今回はどうでしょうか。誰がどういう役割を与えられているのでしょうか。

このテーマはさらに続きます。



そろそろIT屋はみんなで、3K、4Kからの脱出を企てよう.モーゼよ出でよ

2009年7月29日記述


 河村さんとの心の邂逅に想いを馳せながら、ふと小生の脳髄に刷り込まれたトラウマを思い出しました。 これは河村さんも同じだったのでしょう。 それ以来、彼は事あるごとに呟いていました。もうプロジェクトで人を一人も傷つけたくないと。そしてそれからは、回りの同僚、部下を守ろうと必死に努力しておられました。全身をすり減らしながら。。。 河村さんはクリスチャンでした。小生からみれば、変なクリスチャンでした。神頼みをせずにご自分で幾つもの大変な難題を解決しようとしておられました。
小生はというと、先ず、PM的な役回りなんかもう2度としたくないという思いでした。こんな人に無理強いばかりするような仕事はしたくないと。他人は傷つけたくないと。 で、小生の結論は、よか人達が辛い思いをしないためには、ITの仕組みが、プラットフォーム、インフラがもっとしっかりせんといかんのや、という結論です。それで今、老体に鞭打ちながら、プライベート・クラウドQuestを仕掛けています。
PMと言えば、近代PMは元日本IBM専務の富永さんの、ほぼ、発明品です。そしてその富永さんを発見・発掘されたのが、現日本IBM最高顧問、前日本IBM会長、そして前経済同友会会長の北城さんです。 このお二人の強烈なリーダーシップで今のSI業界の構造が出来上がったのだと思います。
 北城さんは、小生が尊敬する、そしてあらゆる意味で勝てっこない、河村さんに対する小生のスタンスと同じ偉人だと思います。(偉人というのは、大人物(無茶苦茶が出来る人)でそれでいて大人格者(他人を大切に出来る人)です)。 で、変(?)な符合は、お二人ともクリスチャンだという点です。
小生は無神論に近い汎神論の神道主義的(老イズム)な実存哲学信奉者なのですが、このクリスチャンのお二人は最高に尊敬しています。(これはゴマスリでも、ホメオトシスでもありません。決して!)
 小生は常々、1995年ごろ以降から本格化したPMが頑張る構造はITに似合わないと思ってきました。
データセンター論やクラウド論が活発になってきた今、もっと容器の大きな構造に脱皮する必要があると考えています。 smarter IT ですかね。 それにしても、ここでも、モーゼよ出でよ、ですね。




河村さんとの想い出...小椋佳の歌を聴きながら.....

2009年7月29日記述


 小生のIT屋としての40年の中で、いろんな方々と出会う事ができました。特に奇人・変人、魔術師、幻術使いなど、凄いスケールの方々がおられます。この方々との触れ合いは時間をかけてお伝えしたいと思います。IT業界には本当に多士済々、言い伝えなければならない大人物、大人格者達が沢山おられました。そして何よりも、どの方々も正義の人、人情の人、飽くなきチャレンジャーの人達でした。その殆んどの方々は今でも意気軒昂で、中島の鼻たれ小僧が何を言いたいんじゃと黙ってはおられないと思います。その中で、疾風怒涛の如く人生を走り抜けられ、残念ながらもうお会い出来ない方がおれます。とにかく凄い方でした。その人、河村さんとの想い出についてホンノ少しそのさわりを記してみたいと思います。
 沢山の想いでがありますから、今日はそんな中での小さな一つ。。。
河村さんは、ご存知の方も多いと思いますが、CADAM Service, CADAM Systemの副社長をされていた方です。疾風怒涛の如く人の何倍もの速さで人生を走り抜けられました。
実は彼は小生よりも2つ年下です。でも、あらゆる意味で全くかなわない人でした。
河村さんとの出会いは、KHI(川崎重工)の統合システムのセリングでした。小生入社3年目、河村さんは2年目だったと思います。河村さんはKHIの人で調達側でした。その2人が恐れも知らず、当時としては破格のシステムを夢みて、創り上げてしまったのです。とにかく可能かどうかも解らなかったのですが、当時のKHIの偉大なるシステム部長、川口さんの無謀なる肝いりでGOになってしまいました。川口さんは、入社2年目の河村さんを大参謀として抜擢し、技術企画を任してしまったのです。河村さんの凄いところは、人事企画もこなしてしまったところにあります。当時のシステム部門は殆んどの企業において全社統合など全くなくて、てんでバラバラのシステム室の群雄割拠の時代でした。当時のKHIでは確か23の部門とその数の分離したシステムが稼働していました。それを一気にまとめ上げてしまったのです。一つの部門だけが残って、あとの20幾つもの組織を潰してしまった。ITシステムの規模としても異常で、いまのクラウド論なんてチャンチャラおかしい規模でした。で、決めてしまったので、順番がおかしいのですが、そのフィージビリティ・アセスのために、2人でUSに出かけて行きました。全くの珍道中だったのですが、この辺の話はまた改めて記述します。でもとにかく大変でした。当時、NASAのシステムで番を張っておられた超エリート技術者から、「お前らそれは無謀だぜ!」 と諭されもしました。でも、小生はお蔭さまで、入社3年の鼻たれ小僧で IBM Corporate Awardをもらいました。副賞がレオナルド・ダビンチ デザインのカフスとタイピンでした。(ホメオトシスです) 
長い前振りでしたが、ここからが本文です。数行で終わります。(その筈です)
その、トンデモないシステムを造りあげる上で、何晩も、本当に何晩も徹夜していました。2日も3日も寝なかったことが何回もありました。
そんな日々の中で、新品のデータセンターに、来るべきキーパンチャーの女性達のための休憩室が出来上がっていて、その畳の部屋で、2人でボケーっとひと時の息抜きの時間帯を過ごしていました。深夜です。
(ここからが本文です。年寄りの話はなが~いなぁぁ。。)
この部屋にステレオ・セットが鎮座ましていました。そして、一枚のLPが”さりげなく”おいてありました。
それが小椋佳さんのレコードでした。
小椋佳さんの名前も知りませんでしたが、2人で聞きました。そして、聞き入ってしまいました。
ジャケットの題名は覚えていませんが、内容は、遥かなる憧憬でした(後にこの名前のLPが出ますが、当時、それではありませんでした)
プロジェクトを推進する上で、カンナで削る如く、何人もの善き人達を弾き飛ばし、傷つけたまま置き去りにしてきていたのですが、小椋佳さんの歌が、そんな孤独な2人を癒してくれました。
その時、止まった時間の中で、河村さんとは、お互いに、本当の親友になれたのだと思います。。。
理屈っぽい夢追い人、小椋佳さんの,[山河」,です。YouTubeです。
システム屋としての戦友、尊敬する河村さんへ。




何故、課題と真正面から闘わないのか.文武の武の無さ,生存能力の無さ

2009年7月02日記述


このサイトを開くにあたっての小生の思いは、心底から、昨今の日本IT凋落への苛立ちでした。小生の40年間は、バンカラを気取った田舎育ちの耽美主義者から、IT業界における切った張ったのビジネス・ゲームへの我を忘れた没入でした。これには個人的なきっかけがあるのですが、そんな半生を振り返るにつけ、今のITの連中は何をしとるんじゃ!、という強いいきどおりが煮えたぎってきます。
 例えば、IBMは日本IBMを無視して頭越しに中国IBMやインドIBMと技術交流をしています。日本IBMの底の無い凋落ぶりにもあきれ果ていますが、(もちろん小生にも責任があります)、日本の学会、官界、業界に対しても黙っていられない怒りと諦観がもやっています。ところが一方で、NECのスパコン撤退の論考を記述するうちに、それでもみんな結構頑張っているんんだなぁぁという気持も不思議と強くなりました。また、日本には優秀な科学者、技術者が沢山眠っていることにも改めて気がつきました。そして、やはり思うのは、日本の秀才は偏差値教育に徹底的に蝕まれている、という感触です。答えが未だ存在しない時点での思考力のなさ、迫力のなさ。 まぁぁぁ、生存能力の無さですね。文武両道という古い言葉がありますが、武がまるでない。それでいて政官学会は、いまだに天才よ出でよ、と借金まみれの大金をどぶに捨てている。動物園の飼育係みたなものですね。(飼育係の皆さん、失礼をお許しください.これは例えです)。今の日本IBMの技術コミュニティの現状にもその縮図を見ることが出来ます。昔は、こんな恥ずかしい会社では無かったのです。野鴨集団だったのです。
 随分前に、養老孟司さんがご自分の生徒(東大ではありません)とやりあっているTVを見ました。
学期末の試験の出題で、養老さんが「試験問題も自分で作りなさい」と課題を提示したところ、頑強に抵抗する女生徒がいました。「問題も自分で作る試験はおかしい」という論理でした。養老さんの趣旨は「世の中は受験勉強ではないよ」という思いやりだったのでしょうが、最後まで説得できなかったようです。
もう一つの日本の課題は、村社会、悪い意味の島国根性ですね。小生は淡路島生まれなのでよく理解できます。自分の中に巣くう事なかれ主義、先送り体質、それを支え合うなれ合いの仕組み。
金融恐慌を受けた今、また、"Back to the Future"のループが始まろうとしているようです。



"The Impossible Dream"

2009年7月01日記述. 見果てぬ夢


YouTube


The Impossible Dream-Man of La Mancha
The Impossible Dream - MAN OF LA MANCHA   削除されていたのが戻ってきたようです
Honda Impossible Dream

 "The Impossible Dream"
from MAN OF LA MANCHA (1972)

To dream the impossible dream
To fight the unbeatable foe
To bear with unbearable sorrow
To run where the brave dare not go

 

To right the unrightable wrong
To love pure and chaste from afar
To try when your arms are too weary
To reach the unreachable star

This is my quest
To follow that star
No matter how hopeless
No matter how far
To fight for the right
Without question or pause
To be willing to march into Hell
For a heavenly cause

And I know if I'll only be true
To this glorious quest
That my heart will lie peaceful and calm
When I'm laid to my rest

And the world will be better for this
That one man, scorned and covered with scars
Still strove with his last ounce of courage
To reach the unreachable star




中島丈夫のプロファイル

2009年6月11日記述


この3月31日付で日本IBM社を退社しました。あまり永いとか短いとかの特別な感慨はありません。
歓送会を一切断ってきたのが一線を引くという気持ちを曖昧にしているのでしょうか。
それにしても、言いたいことが溜まりにたまっている。う~ん、このままでは死に切れんよなぁぁぁ。。。
ということで、ぐずぐずとした歯切れの悪いセコンド・ライフを始めました。