スティーブ・ジョブズは、TVやパソコンなど個別の時代の終焉を促すディジタル・コンバージェンス、つまり通信・放送・書籍など旧メディアとITとの融合を一気に顕在化させました。
これは、インターネットをベースにして起こりつつある文化大革命の歯車を回す、大変な大きな貢献です。
一方でこれらの構想は、永らく観念的には議論されてきたことです。周知の事柄と云ってもいいでしょう。
それが、スティーブ・ジョブズが繰り出した iPod, iPhone, iPADなどによって一気に現実になったわけです。
これは、発明家の偉業というよりはイノベータとしての知の発現をあらわしています。
科学的な論考の結果ではなく、実践知の発現の成功です。
偶有的な彼のビジネスにおける大きな成功が、この革新の大きな礎となっています。
彼のビジネスの成功が伴わなければ、この革新はこんなにスムーズには起こらなかったでしょう。
この成功は、彼の、知の美による発現が iPod, iPhone, iPADなどの製品とともに外在化し、世界の人々の共感・共鳴を引き起こした結果です。
一方で、この成功を支えているもう一つの大きな礎は、スティーブ・ジョブズが展開した世界を工場として編成するエンジニアリングの知、科学的な形式知です。
まさに形式知と非形式知を包含する大きな円の様式です。
それにしても、彼個人の強烈なリーダーシップのもと、青年期に自身が起業し一度放り出されたアップルが、時価総額で世界一になったという事実は驚嘆に値します。まさに彼の固有の人生であり、偶有的です。
彼が示した個人としての生き様の見事さ・美しさは、人々の主たる称賛と共鳴の対象ですし、小生の羨望の的でもあります。彼は夭折してしまいましたが、人生の確かな成功者でもあります。
彼から得られる教訓は、技術における偶有性の重みです。技術における芸術性、知の発現における美のインパクトの大きさ、です。
美への拘りをもつ、へそ曲がりの愚か者(?)が、ビジネスの勝者、人生の勝者たり得た、という事実です。
そして、彼が最も忌み嫌うものは、直感や独創に鈍感な論理の小賢しさであり、市場や顧客の声を盾にして、日常的な形式に埋没する、知の怠惰と堕落なのでしょう。科学の形式主義ですね。
特に、他人の貴重なアイディアのコピーを気にもかけずに再生産し繰り返す、そのような美的感覚の欠落した形式的な知の援用、形式主義が大嫌いなのでしょう。
一方で昨今の日本ITはどうか。そして日本の国家はどうか。
とにかく、成功していないし、グズグズばかりしていて、ちっとも美しくない。
口を開けば、新しいビジネスモデルに脱皮しなければ、優秀な人材を、技術者を養成しなければ、リーダーを養成しなければ、グローバル化しなければ、何かをしなければ、、の言葉の形式的なオンパレードです。
科学技術立国を喚きたて、スマートxxxなどの借り物の構想を神輿のように盲目的に担ぎまわり、取らぬ狸の皮勘定に没頭しながら、それでいて、一向に閉塞感から抜けられない自信のなさ。
これらの構想作りの裏では、山のような形式的な会議やフォーラムが繰り広げられているのでしょうか。
ITの視野における4つの知的領域
一言で”形式主義”、と言ってしまえば、反対する方々はそんなに多くはないのでしょう。
例えば、実行を伴わないミーティングばっかりで物事が決まったかのように錯覚する企業風土に異議を申し立てても、誰も反対はしないと思います。
しかし、ITプロフェッションのPMやITアーキテクトへの業界あげての傾斜を形式主義的だと批判したり、恣意的な答えに照らし合わせるIT資格試験そのものも形式主義だと論評すれば、状況は一変するのでしょう。
ましてやリファレンス・アーキテクチャという言葉が受動的・形式主義的で大嫌いだ、などと囁くと、その瞬間に顔をそむけ、さっさと身を引いていかれる読者が絶対多数に違いありません。
しかし小生の経験に照らし合わせると、これらはみな同根に見えるのです。不満なのです。
このあたりのニュアンスは、スティーブ・ジョブズの事績やグーグルの成功と日本ITの閉塞を比べれば、少しは納得していただけないか、と書き始めたのがこのブログです。
この辺の事情を、知の鳥瞰図としてを図8に描きました。
図では、人間が暮らす知的領域、それをシステム化するための方法論の知的領域、次に計算機上にシステム化され実行する知的領域、そして逆に計算機系・ITの知を人間が暮らす知的領域の革新にぶつけるアーキテクチャ創発の知的領域、合計4つの領域に分けて描きました。
ここでの論点は、日本ITがシステム化の方法論の知的領域に特化しすぎていないか、という主張です。
システム化すること、とは知を形式化することだとすれば、その開発方法論は形式化のための形式知の追求です。そこに一定の自制心がなければ、形式化の再帰的なループが発生してもおかしくはありません。
小生が見てきたここ15年のITの景色は、科学的方法論構築の錦旗のもと、ある意味で言葉の陰に隠れて知の冒険を怠る、言葉や方法論偏重の、形式主義への大きな流れでした。
これは何回も述べますが、スティーブ・ジョブズの事績と比較すれば明らかだと思います。
スティーブ・ジョブズの事績は図7ではエマージングなアーキテクチャ創造に位置づけられるでしょう。
技術におけるツールや方法論が、本来のものつくりの様式から逸脱し、如何に自己増殖して膨張・巨大化していくのかは、図9や図10で、少し想像がつくのではないでしょうか。
ツールや方法論は、形式化による規模の利益が本質ですが、それでも変わって行くべきものです。
それがあまりにも巨大化し、形式主義に嵌まりきってしまうと、その知は暗号化で武装した教団と化し、自己中心的で他者の知を排斥し、固定化します。
彷徨う日本民族の再出発は、知の発現の様式=アーキテクチャの再構築から
日本IBMの在職中に見ていた最後の風景は、それは酷いものでした。
誰もビジネスの実践と成功に真っ当に取り組まず、統計データの解析・解説や会議の成功に熱心でした。
技術者コミュニティも、ビジネスや技術に没頭するより、形式的な資格の追求や会議に嵌まっていました。
勿論、小生も傍観していたわけではなく、必死になってその流れに竿さそうとしました。
そしてその都度、大昔に見た映画、”ローマ帝国の滅亡”の1シーンが目の前にダブリました。
筋は覚えてはいませんが、ローマの危機に舞い戻った軍司令官が、目指すローマに辿りつけないのです。
滅びゆくローマを見捨てて遮二無二に脱出する市民の群れの流れの勢いに、虚しく流されてしまいます。
特に技術者が空洞化していく姿を目の当たりにした小生は、真剣に技術担当役員に進言しました。
この流れには病原菌を撒き散らす患者がいて、それを排除しないと疫病は感染して蔓延するだろうと。
しかし、小生の進言は端から相手にされず彼は逆に加担し、どんどん状況は悪化するばかりでした。
彼も既に形式主義に感染していたのでしょうね。 インベーダーの地球乗っ取りの風景です。
そして小生はといえば、そんなことを喚く自分自身を傷つけるばかりでした。
そして、その結果は、今や明瞭のようです。
日本国中が、同じように、この病に侵されているのではないでしょうか。
形式主義の病は恐ろしいものです。自浄能力の仕組みさえも固定化し形式化してしまいます。
最近の情報処理学会誌([2011] Vo.52 No.10 通巻559号)を見ると、小生の当時の思いと同じ焦りと憤懣が吐露されています。特に日本IBM役員の岩野和生さんの嘆きが大きい。
「座談会 高度IT人材育成の10年」、日本のIT人材育成への危機感、です。
原子力村のような、恣意的で自己中心的な専門家集団がこの国のあらゆる場を仕切っていないだろうか。
諸々の知の様式が部外者に暗号化され、共有されるべき知が分断・個別・固定化されていないだろうか。
一言でいえば、科学的な方法の呪文のもと、形式主義、官僚主義がこの国を支配しているのです。
矮小化した損得勘定で大義が蹂躙される現行の民主主義の様式もその一例でしょう。
そこには美も、善も、真もない。
これを再構築するためには、スティーブ・ジョブズが関心を持っていたという、技術とリベラルアーツの接点を強く意識した、教養主義的な知の仕様、アーキテクチャが、今、求められているのではないか。
時代を超え、世代を超え、共感・共有できる基本的で普遍的な、人間本来の美・善・真の発現の様式です。
形式に拘らず、もっと自由になろう。
走りながら、歩きながら、身体を動かしながら、考えよう。
屈託なく、素直に、考え、あらゆる可能性を、感じよう。
偶有的で一回こっきりの自分の一生を個性的に、本当の意味で大事にすれば、このマクロな世界の形式主義の自縛から逃れられるのかもしれません。
スティーブ・ジョブズのカウンターカルチャーの拘りと、それでもなお大きな成功を勝ち得たことの本質は、こんなあたりにあるのかもしれません。 ”I still loved what I did” で、"Stay Hungry. Stay Foolish."ですね。
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