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哲学への憧憬
ラ・マンチャ通信
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  瞑想/覚悟/そしてシステム屋としての思考
中島丈夫の哲学への憧憬
哲学への憧憬は若いころから強くありました。科学の実証性を超えた自由な論理の飛翔が魅力です。
哲学には殆んど造詣はありませんし、思考も随分と鈍ってきています。恥をかくだろうなぁぁ。。。



スティーブ・ジョブズの成功譚から焙り出される、日本と日本ITの課題

- 技術と科学の区別を意識して論じよう -3

2011年10月25日記述



我,古稀を前にして大いに迷う.小欲知足、はたまた、"Stay Hungry. Stay Foolish."?

 還暦はとっくに過ぎて、そろそろ古稀の風が淡く漂いだした今になっても、小生は迷いっぱなしです。
何しろ、淡路の海と野山の風に舞った気儘で自由な青春時代から、IT業界でのガチンコの40年間のSE生活を経て、年老いた今も、未だにラマンチャの原野をさ迷うクエストに嵌まっています。
特に経済的な余裕など味わうすべもない奉仕型年金生活で、独りよがりの自負にすがるホメオトシスの旅も湿りがちです。
年老いたクエストの小波乱が続く日々の中で、若き日に憧れた土光敏夫さんの、公私を峻別する清いリーダーシップに嵌まった自分の生き様を、いまさら悔やんだりもしています。
そんな彷徨うクエストの中で、自然と心に湧いてきたキャッチが、仏教用語の小欲知足です。
尤も、小生の小欲知足は、本来の”欲を小さくして足れるを知れり”、の境地ではなく、”物欲を叶えるのはとても金銭的に出来そうもないので、せめて安上がりの知識の充足で欲を満たそう”、なのですが...

 一方で、IT業界の英雄、スティーブ・ジョブズが亡くなり、数少ない我が友の一人、長野さんが、スタンフォード大学卒業式の祝辞のリンクを送りつけてくれました。
2005年スタンフォード大でのスピーチ(字幕付き)
http://www.youtube.com/watch?v=87dqMx-_BBo
スピーチ全文
http://news.stanford.edu/news/2005/june15/jobs-061505.html

 スティーブ・ジョブズが亡くなった10月6日から、世界は彼のニュースで溢れていましたが、同じIT業界といえども企業系システムに没頭してきた小生の視界では,彼はあまり大きな存在ではありませんでした。
しかし送り付けられたWebを見るうちに、いつのまにか、スティーブ・ジョブズの生き様に強く惹きつけられる自分がいました。
美しい人生だな...
一番気に入ったフレーズはアップルを追われた時に彼が想起したという、”I still loved what I did”でした。
”う~む....やっぱりそうだよね....”。

そして考え込んでしまったのが、彼が最後に締めくくったフレーズです。
"Stay Hungry. Stay Foolish."です。図1
この言葉はスタンフォード大学卒業式の若き卒業生に向けたものですが、何故か古稀に向かう小生にも迫ってくる迫力がありました。
小欲知足、はたまた、"Stay Hungry. Stay Foolish." か?

小生はもう十分に”愚かなりわが心”なんですが、やっぱりMy Quest に傾いてしまいます。


日本停滞は知の形式主義への極端な傾斜一方で、ジョブズは美による知の発現で大成功

 東日本大震災や福島原発事故、そして未曽有の経済危機を受けて、昏睡状態だった日本人の知も、ショックでやっと目覚め始めたようにも見えます。
しかしそれがほんものかどうかは、甚だ心もとないところがあります。

 ということで、このスティーブ・ジョブズの言葉に酔いながらも、小生の心に浮かんだのは、この機会を利用して、スティーブ・ジョブズのご威光のもと、永年の小生の主張を反復することです。My Questです。
スティーブ・ジョブズさんについては殆ど何も知らないので、見当はずれの論考になるかもしれません。

 小生が、このラマンチャ通信でブログを書き始めた動機は、日本ITに対する強い危機感からです。
特に日本IBMに在籍していた最後の10年間での経験で、その思いは日々募るばかりでした。
このままでは日本IBMはだめになるし、そして同じ景色に見える日本のITも愈々おしまいになる。
40年も付き合ったのだからもういいでしょう、なのですが、でも、”I still loved what I did”なのです。図2
少々大ぼらに過ぎますが、日本のIT業界を、そして日本そのものを何とかしなくては...

 小生の主張は、現在の日本ITや日本の、知の形式主義への極端な傾斜に対する異議申し立てです。
日本の20年に及ぶ停滞や、昨今の絶望的な展望の無さの原因は、ざっくり云ってしまえば、日本全体が知の形式主義に嵌ってしまい、本来の生々しさ、偶有性を忘れてしまっているからだ、と考えています。
言葉や理屈が氾濫し、リーダーや識者の、言葉の陰に隠れた実体のないストーリーボードやそれを元にした抽象的な議論が溢れています。抽象的であるが故に二項対立が解けないままに時間だけがたっていく。
そしてストリーボード作りに没頭して、現実の狩りはすっかり忘れてしまい、知の冒険にも出かけない。図3
小田原評定状態ですね。
知の形式主義化は人間を受動的にし、人間から能動的で臨機応変のしたたかな行動力を奪います。
さらに悪いことには、本来、国民の知の共有・共用のための、知の外在化のメディアであるマスコミも、形式主義に堕し、その日暮らしの無目的な評論を繰り返すばかりになっています。迅速な決定を阻む二項対立を紐解く知の共有の役割を担おうともしない。民主主義における知の共有の方法の形骸化の一つです。

 そしてもう一つの大きな問題は、自己犠牲とか義理人情とかで、もう誰も動こうとはしなくなったことです。
民族として、すっかりハートを失くしてしまった。恥も外聞もなく、美意識を失くしてしまった。
自己中心主義の蔓延ですね。これも根底では、形式主義が原因でそうなっているのだと考えています。

もちろん形式主義にも効能が多いのも承知です。しかし日本人の当事者としての実行力が極端に低下した今、為すべきことは形式主義の徹底的な払拭でしょう。

 この日本の問題の本質を顕在化させたエビデンスの一つが福島原発事故だと考えています。
2011年07月10日のブログ、福島原発に見る科学の堕落と技術の堕落.知の発現としての美・善・真
で、科学者、技術者の堕落という言葉で、論考しました。
堕落とは、我々個々のメンバーが本来の知の発現を怠り、知が荒廃し、民族・国家が衰退していく様です。
形式主義に嵌まった自己中心的な知が、技術者や科学者の堕落となり、人災を起こしてしまいました。

 この辺の日本の問題点は、スティーブ・ジョブズの事績と比較すると大変理解し易くなります。
彼は、人間の本来の知の発現とはどういうものか、を、溢れるばかりの彼個人の美意識にもとづく生き様と、その大きな成功によって示してくれました。

人の一生の偶有性とマクロな世界の絡まり.科学への盲信が形式主義を蔓延させている

 私たち人間は、オギャーと泣き叫びながらこの世に投げ込まれ、何が何だか解らないまま、日常の生活・生存を通して、自己と自己以外の外の世界、そしてその関係を認識していくようです。
この、自己と外界のボトムアップな後追いの認識課程で、五感を通した経験によって、収集・蓄積・構成されていくのが人間のだと、ざっくりと考えます。

 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールによると、これには以下のような背景があるそうです。
ギリシャ神話の引用と比喩です。
 昔、ゼウスがプロメテウスに、神以外の、不死でない諸々の動物を作り出す仕事を命じたそうです。
請け負ったプロメテウスは、彼の双子の弟エピメテウスに懇願されてこの仕事を弟に委託したのですが、
エピメテウスの迂闊さ(忘れていた)故に、弟が一連の動物を作り終えて気が付くと、最後に残った人間に配る種の特性がもう残っていなかったのだそうです。人間は中味が空っぽのままで放り出されてしまった
困ったプロメテウスは、オリンポスの神、ヘパイストスとアテナのところから、技術的な知恵とともに盗んで、人間に与えたのだそうです。
人間は、生存のための術、技術という知恵だけを埋め込まれて、ゼロからスタートした。
それ故に、人間は技術とともにあり、技術が無ければ何物でもなく、その技術は本来、生存のための、生産的なものなのです。 しかし人間の動物の種としての本質は空っぽのままだった。
特に形而上学的なものも空っぽで出発した筈です。
 ”プロメテウス”の語には先に知るとの意味があり、”エピメテウス”には後に知るの意味があるそうです。
人間の製作者がエピメテウスであり、作り親の能力の制限で、人間は本質的に後で知る者となった。
しかし、後で得る知には2通りがあって、流れ去る後知恵と、蓄積する経験とは峻別する必要があります。
経験によって、人間は着実に新しい知を獲得し、技術の質と量も拡充させることができます。
さらに経験は、後で知る運命の人間にとって、先に知る存在への脱皮の可能性を含んでいるようです。
実際、人間は有史以来、先に知ることの可能性を追い求めてきました。
そして、先に知ることを可能にする預言者は、神に近い存在でした。

 人間の知と技術、科学に関する景色を図5で描いてみました。
ここでは、人間の知が認識する外界を2種類のドメインで区別しました。
人間が、物心ついて以来直接、接し続ける生活・生存の身近で現実的な偶有性のドメインと、それらを包み込む間接的なマクロな世界です。
偶有性とは、個別・固有の事柄であり、我々一人一人にとっての身近な現実です。例えば自分の一生です。
偶有性とは、世界のある普遍的な本質が、アクシデントとしてたまたま固有の属性で選択され生起したもの、という程の意味が、哲学用語での定義(?)のようです。
小生はIT屋ということもあって、偶有性を、抽象化されたモデルの具体的な個々の実現、インスタンス、と解説したい。そこにはアクシデントや偶然という突き放したニュアンスはありません。
一人の人間、当事者としてより切実な現実です

 もう一つのドメインはマクロな世界です。
幼い子供の視野には未だおぼろげにしか存在しませんが、知が拡充されるにつけ、人間の視界の大きな部分をマクロな世界が占めるようになります。
マクロな世界は普遍的なドメインで、哲学では本質が埋まる存在の場であり、科学では実証可能な法則の支配のもと、主として確率・統計で把握・表現できる森羅万象の場です。
この、自分に降りかかる偶有性とマクロな世界との秘めたる関係への疑問が、人間の”WHY”の根源であり、有史以来、宗教や哲学がこの謎の答えを追求してきました。
それが近世に科学というジャンルが現れ、その思考の方法論として観察・推論・検証の実証性が導入され、マクロな世界の理解が一気に広がりました。
また、検証の基礎となる再現性の訴求が工業化を生み、思考や様式の形式化を加速させてきました。
偶有性のドメインでの知の構成は、実感ある人間の五感がセンサー&アクチュエータ(S&A)でしたが、
科学の方法がマクロな世界を理解するS&Aとなり、人間は五感では到底到達しえない無数の知見を獲得することができるようになりました
結果として、知を構成するドメインの勢力関係は、マクロな世界の知(科学)の圧勝となっています。
科学の圧勝は形式化の勝利ですが、人間本来の偶有性の知、すなわちシチュエーショナルな個別的な実践知の自由な発現をいつのまにか封じ込め、形式主義が根を張る根本原因になっているのでしょう。
この科学中心の知の風景の中で技術はどう位置づけられるのでしょうか。

 技術は人間とともにあり、偶有性とともにマクロな世界をも支えます。両者を繋ぐ接点でもあります。 
身体性の五感をS&Aとして原初から内在し、偶有的な人間生存と一体化してスタートした技術が、科学という五感を超えたS&Aを手に入れることによって、自然を含むマクロな世界との関係を破壊的に革新し、生存の知恵が暴発、テクノと呼ばれた個別的な本来の技術を圧倒するようになりました。
プロセス化、形式化による規模の利益により、生活・生存のための技術の生産性が、激変したわけです。
結果として、科学が技術の絶対的に大きな部分を占め、偶有性と共にあった技術の側面は低下しました。
織田信長の鉄砲隊の前に潰えた武田騎馬隊や、塚原卜伝流のプロフェッショナルの終焉です。

 しかし、マクロな世界がそうであっても、偶有的な、個々のシチュエーションではどうでしょうか。
例えば無人島に流されて科学的な技術が全く通用しなくなったシチュエーションでサーバイバルしなければならない場合を考えてみましょう。(例が陳腐ですね...)
マニュアル通りにしか人間の技術知が発現できないのでは、生存もままならないでしょう。
その時発揮するのが、人間の臨機応変な偶有性の実践知、現場力の筈です。危機対応能力ですね。
危機的で突発的な環境ではマニュアル外(想定外)が頻発し、形式知だけでは生き残れない。
比喩が適切ではありませんが、人間の生存を支える本物の技術知には、形式知と偶有的な非形式知が、統合されて、ある筈です。

 小生が問題にしているのは、形式知が、知の発現の様式の全てとして納まってしまっている現状です。
そしてその形式知が科学信奉主義のもと、偶有性のドメインの実践知や現場力をすり潰している現状です。
そのために、個人としての全人的な判断力、適応力、免疫力、が著しく劣化してしまっていることです。
科学が実証性としての再現性を要求するため、方法論としての形式を伴うのは必然でしょう。
そして、この科学の方法が肥大化すると、偶有性のドメンの実践知や現場力が相対的に蔑ろにされていくのも必然です。しかしその結果、形式主義が容易に台頭する。、
さらに、科学的とは統計的であり、個別的で偶有的な個々の事情は、統計処理のマクロな括りに埋没してしまうのも当然でしょう。
そして人生の価値が統計的に処理されるとすれば、顔の見えない、サンプル点に過ぎない自己犠牲や、科学ではキャプチャーされない人徳や義理や人情が消えてゆくのも、また当然の成り行きです。
形式主義の世界では、価値も流動性の交換効率で形式化され、金権主義に画一化されていくのでしょう。

 話が大きく飛んでしまいますが、新しいIT技術の応用分野である、ビッグデータの解析やストリームコンピューティング、さらにはCPS (Cyber Physical System)などの新しい技術を推進していく上で重要なのは、マクロな世界と偶有的な固有の事情の統合です。
その意味で、マクロな世界がサイバーで覆われていく流れの中で、人間の個々の偶有性である身体性の重視が大変重要になるのでしょう。
余談ですが、小生は、”気の流れを生む心のエネルギー勾配. 誇りと癒しの再生サイクル”のブログで、この統合のアプローチを試みました。

 さて、図4のもう一つの重要な主張は、知の発現としての美・善・真の様式です。
知が内面的なものから外在化し、他者との共有・共用が可能な拡がりを持つにいたるのは、人間知の本質的な構造です。
ベルナール・スティグレールによれば、この知の発現の順序は、美・善・真の順番であるらしい。
発生論的に、美が人間の五感に近い偶有性のメディアに、外在化することは自然です。
その意味で、は偶有性にとっての強い援軍であり、科学の形式に押しつぶされ、形式主義に埋没し続ける日本民族の、知の再生の切り札になるのでは、と考えています。


スティーブ・ジョブズに学ぶ技術の知の様式は、芸術と科学のブレンド
 科学的な知の重要さは自明のことなので、これを抹殺しろ、などという暴言を吐くつもりはありません。
しかし一方で、科学万能主義を鵜呑みにする日本では過度な形式化を生み、それに嵌まった日本民族がマクロな世界を論じるばかりで、偶有的な一つ一つの実践の重要さを忘れ、20年に及ぶ知の停滞をもたらしていることは事実だと考えます。
 また例が適切ではありませんが、例えば、市民派的人々が重視する偶有性の知と、国家的で経済的な価値観を主張するマクロな世界の知を、其々的確に外在化し、民族の知として融合し、共感・共有・共用することが求められています。
不毛で身動きが出来なくなる二項対立はもうやめにしたい。
見方を変えれば、中小企業のものつくりの強さと、大企業のエンジニアリングとの上手な統合です。
TPPのにおける、賛成派、反対派を融合できる様式です。
そのためには、両者の形式的なバランスではなく、行動的なブレンドで、共感のもとでの質量ともに溢れさせ、混ぜ合わせる、新しい知の様式の構築が必要です。ブレンド思考で閉塞状況から飛び出す仕組みです。
バランス思考とブレンド思考の特徴を図6に示します。
これは、2011年02月06日の、”日本人の怒りはコントロールできるのか? バランス思考からブレンド思考へ- 怒りを超え、心を癒して日本人の誇りを再生しよう -3”のブログで論考しました。

さらには、グローバル時代を控えて、民族を超えた多様な知の共感・共有のお作法、様式作りも大変重要になるのでしょう。TPPがそれの一つの試練でしょうか。

 さて、従来はこの知の外在化をメディア論として論じてきたように思いますが、小生はこのブログで伝統的にメディアとして位置づけてきた知の共有・共用のための外在化の技術を、様式と表現したいと思います。
動機は2つあって、一つは、知のお作法が内在するよそ者を排斥する、云わば形式化の暗号としての本質を、今までのメディア論よりも積極的に表現したいということ、2つ目は、IT屋として”様式=アーキテクチャ”の展開につなげたいという目論みがあるからです。
知の様式を、eCloud研究会で主張する”ユーザー主導のクラウド・アーキテクチャ”の精神につなげたい。
つまりこのブログの論考をアーキテクチャの創作、グラウンド・デザインの創作に繋げたいと考えています。

以上の論考をまとめたものが下の図7です。
図は、技術を形式的ー非形式的な知の軸と、複雑・複合的ー単純・個別的な知の軸で鳥瞰しています。
図の主張は、知の外在化のための様式が、形式的な知と非形式的な知の双方を包含して円となっている点です。統合です。
スティーブ・ジョブズの偉大さは、この新しい技術の知の様式を、一人のリーダーシップで具現化したことだと考えます。

(下に続きます)



  
  
    

図1
 "Stay Hungry. Stay Foolish."、それとも、小欲知足?



   
  図2 "But, I still loved what I did"





 図3
もうストーリーボードはいいから、狩りに出かけようぜ



図4 人間と技術との出会い


 図5

人の存在の偶有性とマクロな世界.科学と技術の関係










  
  

       図6 バランス思考とブレンド思考

     内向きな閉塞ベクトルに陥りがちなバランス思考.

     多様なベクトルの組み合わせで打って出るブレンド思考

 

 
         
             

                      図7 技術の鳥瞰と、知の発現と外在化の様式

 
 
 スティーブ・ジョブズは、TVやパソコンなど個別の時代の終焉を促すディジタル・コンバージェンス、つまり通信・放送・書籍など旧メディアとITとの融合を一気に顕在化させました。
これは、インターネットをベースにして起こりつつある文化大革命の歯車を回す、大変な大きな貢献です。
一方でこれらの構想は、永らく観念的には議論されてきたことです。周知の事柄と云ってもいいでしょう。
それが、スティーブ・ジョブズが繰り出した iPod, iPhone, iPADなどによって一気に現実になったわけです。
これは、発明家の偉業というよりはイノベータとしての知の発現をあらわしています。
科学的な論考の結果ではなく、実践知の発現の成功です。
偶有的な彼のビジネスにおける大きな成功が、この革新の大きな礎となっています。
彼のビジネスの成功が伴わなければ、この革新はこんなにスムーズには起こらなかったでしょう。
この成功は、彼の、知の美による発現が iPod, iPhone, iPADなどの製品とともに外在化し、世界の人々の共感・共鳴を引き起こした結果です。
一方で、この成功を支えているもう一つの大きな礎は、スティーブ・ジョブズが展開した世界を工場として編成するエンジニアリングの知、科学的な形式知です。
まさに形式知と非形式知を包含する大きな円の様式です。

 それにしても、彼個人の強烈なリーダーシップのもと、青年期に自身が起業し一度放り出されたアップルが、時価総額で世界一になったという事実は驚嘆に値します。まさに彼の固有の人生であり、偶有的です。
彼が示した個人としての生き様の見事さ・美しさは、人々の主たる称賛と共鳴の対象ですし、小生の羨望の的でもあります。彼は夭折してしまいましたが、人生の確かな成功者でもあります。

 彼から得られる教訓は、技術における偶有性の重みです。技術における芸術性知の発現におけるのインパクトの大きさ、です。
美への拘りをもつ、へそ曲がりの愚か者(?)が、ビジネスの勝者、人生の勝者たり得た、という事実です。
そして、彼が最も忌み嫌うものは、直感や独創に鈍感な論理の小賢しさであり、市場や顧客の声を盾にして、日常的な形式に埋没する、知の怠惰と堕落なのでしょう。科学の形式主義ですね。
特に、他人の貴重なアイディアのコピーを気にもかけずに再生産し繰り返す、そのような美的感覚の欠落した形式的なの援用、形式主義が大嫌いなのでしょう。

 一方で昨今の日本ITはどうか。そして日本の国家はどうか。
とにかく、成功していないし、グズグズばかりしていて、ちっとも美しくない
口を開けば、新しいビジネスモデルに脱皮しなければ、優秀な人材を、技術者を養成しなければ、リーダーを養成しなければ、グローバル化しなければ、何かをしなければ、、の言葉の形式的なオンパレードです。
 科学技術立国を喚きたて、スマートxxxなどの借り物の構想を神輿のように盲目的に担ぎまわり、取らぬ狸の皮勘定に没頭しながら、それでいて、一向に閉塞感から抜けられない自信のなさ。
これらの構想作りの裏では、山のような形式的な会議やフォーラムが繰り広げられているのでしょうか。


ITの視野における4つの知的領域

 一言で”形式主義”、と言ってしまえば、反対する方々はそんなに多くはないのでしょう。
例えば、実行を伴わないミーティングばっかりで物事が決まったかのように錯覚する企業風土に異議を申し立てても、誰も反対はしないと思います。
しかし、ITプロフェッションのPMやITアーキテクトへの業界あげての傾斜を形式主義的だと批判したり、恣意的な答えに照らし合わせるIT資格試験そのものも形式主義だと論評すれば、状況は一変するのでしょう。
ましてやリファレンス・アーキテクチャという言葉が受動的・形式主義的で大嫌いだ、などと囁くと、その瞬間に顔をそむけ、さっさと身を引いていかれる読者が絶対多数に違いありません。
しかし小生の経験に照らし合わせると、これらはみな同根に見えるのです。不満なのです。
このあたりのニュアンスは、スティーブ・ジョブズの事績やグーグルの成功と日本ITの閉塞を比べれば、少しは納得していただけないか、と書き始めたのがこのブログです。

この辺の事情を、知の鳥瞰図としてを図8に描きました。
図では、人間が暮らす知的領域、それをシステム化するための方法論の知的領域、次に計算機上にシステム化され実行する知的領域、そして逆に計算機系・ITの知を人間が暮らす知的領域の革新にぶつけるアーキテクチャ創発の知的領域、合計4つの領域に分けて描きました。
ここでの論点は、日本ITがシステム化の方法論の知的領域に特化しすぎていないか、という主張です。
システム化すること、とは知を形式化することだとすれば、その開発方法論は形式化のための形式知の追求です。そこに一定の自制心がなければ、形式化の再帰的なループが発生してもおかしくはありません。
小生が見てきたここ15年のITの景色は、科学的方法論構築の錦旗のもと、ある意味で言葉の陰に隠れて知の冒険を怠る、言葉や方法論偏重の、形式主義への大きな流れでした。
 これは何回も述べますが、スティーブ・ジョブズの事績と比較すれば明らかだと思います。
スティーブ・ジョブズの事績は図7ではエマージングなアーキテクチャ創造に位置づけられるでしょう。

 技術におけるツールや方法論が、本来のものつくりの様式から逸脱し、如何に自己増殖して膨張・巨大化していくのかは、図9や図10で、少し想像がつくのではないでしょうか。
ツールや方法論は、形式化による規模の利益が本質ですが、それでも変わって行くべきものです。
それがあまりにも巨大化し、形式主義に嵌まりきってしまうと、その知は暗号化で武装した教団と化し、自己中心的で他者の知を排斥し、固定化します。


彷徨う日本民族の再出発は、知の発現の様式=アーキテクチャの再構築から

 日本IBMの在職中に見ていた最後の風景は、それは酷いものでした。
誰もビジネスの実践と成功に真っ当に取り組まず、統計データの解析・解説や会議の成功に熱心でした。
技術者コミュニティも、ビジネスや技術に没頭するより、形式的な資格の追求や会議に嵌まっていました。
勿論、小生も傍観していたわけではなく、必死になってその流れに竿さそうとしました。
そしてその都度、大昔に見た映画、”ローマ帝国の滅亡”の1シーンが目の前にダブリました。
筋は覚えてはいませんが、ローマの危機に舞い戻った軍司令官が、目指すローマに辿りつけないのです。
滅びゆくローマを見捨てて遮二無二に脱出する市民の群れの流れの勢いに、虚しく流されてしまいます。
 特に技術者が空洞化していく姿を目の当たりにした小生は、真剣に技術担当役員に進言しました。
この流れには病原菌を撒き散らす患者がいて、それを排除しないと疫病は感染して蔓延するだろうと。
しかし、小生の進言は端から相手にされず彼は逆に加担し、どんどん状況は悪化するばかりでした。
彼も既に形式主義に感染していたのでしょうね。 インベーダーの地球乗っ取りの風景です。
そして小生はといえば、そんなことを喚く自分自身を傷つけるばかりでした。
そして、その結果は、今や明瞭のようです。
日本国中が、同じように、この病に侵されているのではないでしょうか。
形式主義の病は恐ろしいものです。自浄能力の仕組みさえも固定化し形式化してしまいます。

 最近の情報処理学会誌([2011] Vo.52 No.10 通巻559号)を見ると、小生の当時の思いと同じ焦りと憤懣が吐露されています。特に日本IBM役員の岩野和生さんの嘆きが大きい。
「座談会 高度IT人材育成の10年」、日本のIT人材育成への危機感、です。


 原子力村のような、恣意的で自己中心的な専門家集団がこの国のあらゆる場を仕切っていないだろうか。
諸々の知の様式が部外者に暗号化され、共有されるべき知が分断・個別・固定化されていないだろうか。
一言でいえば、科学的な方法の呪文のもと、形式主義、官僚主義がこの国を支配しているのです。
矮小化した損得勘定で大義が蹂躙される現行の民主主義の様式もその一例でしょう。
そこには美も、善も、真もない。
これを再構築するためには、スティーブ・ジョブズが関心を持っていたという、技術とリベラルアーツの接点を強く意識した、教養主義的な知の仕様、アーキテクチャが、今、求められているのではないか。
時代を超え、世代を超え、共感・共有できる基本的で普遍的な、人間本来の美・善・真の発現の様式です。

形式に拘らず、もっと自由になろう。
走りながら、歩きながら、身体を動かしながら、考えよう
屈託なく、素直に、考え、あらゆる可能性を、感じよう
偶有的で一回こっきりの自分の一生を個性的に、本当の意味で大事にすれば、このマクロな世界の形式主義の自縛から逃れられるのかもしれません。
スティーブ・ジョブズのカウンターカルチャーの拘りと、それでもなお大きな成功を勝ち得たことの本質は、こんなあたりにあるのかもしれません。
I still loved what I did” で、"Stay Hungry. Stay Foolish."ですね。






 


  図8 ITにおける4つの知的領域






図9
神話の誕生:狩りそのものよりも重要な方法とツール





図10 形式と利権が固定化する運命共同体